白黒部屋のねこたまご

気ままに花咲く思索の庭園。物語や理系関連に対し益体もないことを呟くブログ。

ノベルゲームの持つ可能性を信じたい。私の考えるノベルゲーム的物語性について~

 

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「最初に夢が必要なんだ」

 

「理想に惑わされることがなければ、灰色の日常から、何かを始めようと思うものとていない」

 

魔女こいにっき

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

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 ノベルゲーム(ゆうてもエ口ゲがほとんどだけど)をプレイしていきながら、私はよく、ノベルゲームの持つ可能性について考える。

それは物語の可能性といっても差し支えないかもしれない。

 

 

小説、漫画、ドラマ、映画、アニメ……この世の中には、同じ物語にしたって実に多種多様な表現方法が存在する。

 

あるいは有名な漫画やアニメなどを、実写化という形で映画にすることも今では珍しいことではない。

が、これに関しては賛否両論だろう。

 

同じ内容にしたって、表現方法が違えば当然 ” 映え方 ” も変わる。

 

アニメで見て好きだった作品が実写化し、ウキウキ気分で見に行ったら『なんじゃこれ』ってなった経験も、アニオタならしょっちゅうのことだろう。

私にもあった。

好きだったラノベが実写化し、いざ見にいったら酷すぎて思わず失笑してしまったこともある。

 

表現方法が異なることで、ひとつの作品に対する見方ががらりと変わってしまうことに強烈な抵抗感を覚えてしまう。

 

 

しかしそれでも実写化をやる意義というのは、その表現方法ではじめて通じる人がいるからだ。

 

アニメや漫画では心が打たれない………でも実写化で、好きな俳優さんが演じているそれを見て、はじめてこの作品の良さがわかった。なんてこともあるのだ。

 

私には好きな俳優も監督もいないが、つい最近見に行った劇場アニメ『君の膵臓をたべたい』も、私としては原作よりずっと心に響くものだった。

(5回も見に行くほどだった。それくらいハマっちゃってた。すごい)

 

 

まぁその話はともかく、私が言いたいのは、物語には多様な表現方法があり、自分に合う合わないという相性も当然あるということだ。

 

 

私はもはやドラマや実写など、生身の人間が演じているものはどうしてもダメで、アニメにしても最近は首をかしげるようになってしまっている。

小説もすぐに飽きちゃうし、漫画も好きじゃないし。

 

もうどうすんだと。

エ口ゲしかないじゃん、ってのが現状になっています。

 

 

そんな杓子定規な私だからこそ、エ口ゲの可能性を追求したくなるわけでして。

今日はそれをだべっていこうかなと思います。

 

 

 

 

 

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*作家論と作品論

 

いきなり蛇足。

はじめに明確にしておきたいことなのでここで語っちゃいますが、私は作家論主義を大の苦手としている。

 

物語を読む際、その読み方として挙げられる論法がいくつかがあるが、そのうち代表的なものとして作家論作品論というものがある。

 

作家論は、物語を通して作者を見るという方法。

 

かたや作品論は、作者を極力無視して物語だけに目を向けるという方法のことだ。

 

 

物語を通して作者を見るとはつまりどういうことかと言えば、小中等教育の国語ですよ。

『この文に込められた作者のキモチは?』

『この物語から読み取れる、作者が伝えたいことは?』

 これが作家論の代表格。物語はただのフィルターに過ぎず、焦点は作者にしか当てていないっていうやつ。

 

私のいた大学でもこのようなことを取り挙げている教授がいましたが、もうね、ムカつきすぎて仕方なかった覚えがある。

 

中等教育の国語科目はまた別に目的があるので、作家論を取り入れていることには否定はしない。

けど、つまらないよね、とは思う。

 

 

 

一言でいうと、

 

 

それって物語を見ているの?

 

 

って。 言いたくなるのね。

 

結局作家論というのは、物語は作家を見るためのひとつの材料に過ぎないって言っているようなものなんだよね。

そのために物語上の世界観や展開を考察し、最終的に作家の心情へと結びつける。

 

もちろんそれが悪いとは否定しない。

だけど、それで物語を理解した、感動した気になられても「はて…?」と疑念を感じざるを得ない。

 

 

開き直って「ああそうだよ俺は作者が好きだから作者を見てんだよ」って言われた方がすっきりする。

そうか、君にとってそれが物語なんだねってあきらめがつく。

 

 

 

 

 

 

 

作品論、実はこれが一番たちが悪い。

 

作家論が先に語ったようなものに比べ、作品論の読み方は作者は物語を見るためのひとつの材料に過ぎないというものだ。

 

ここがネック。

 

時に作者を織り交ぜ、けれど物語を情緒的に見る……

この手の読み方をしている人がほとんどだろうと思う。

 

全然いいと思うんだ。

 

だけど、勘違いしてほしくないのは 作者の言っていることがすべてじゃないんだよ、ということ。

 

でしゃばりな作家さんってのがよくいて、その人たちは、自分がどのような心情でこれを書いたとかあちこちで言ってるんだけど、

物語ってのは読む人がすべてなんだよ。読んだ人がどう感じるかが答えなんだよ。

製作背景とかそういうのを嬉々として語ることにより、作り手が物語の中に”決まった形――いわば顔”を作ってしまう。

それにより、読み手の想像力は制限されることになる。

 

作者がこう言っていたから、この人物はこういう考えで動いているんだね、とか。

 

 

私はかつて同じ経験をして、最後まで作品をプレイできなくなったことがあるので、以後そういう作家さんの作品は絶対にやらないようにしている。

 

物語は自由であっていいんだから。そこに作家が入り込んじゃいけないんだよ。 

 

 

 

 

逆に、読み手自身から作者を連れてくることもある。

よく見る感想としては、

 

『この作者は恋愛を書くのが下手だ。だから次の作品では恋愛を書くことから逃げたんだ』

『この作者の書く作品は、決まって感動的なものだ。だから次の作品は感動的なものじゃないからダメだ』

 

とか。

こんな極端な例はないだろ、とか思う人もいるかもしれないけど、実際に見たことがあるんだよ、残念ながら。

別にこれも作品論的読み方のひとつだ。それ自体に否定はしない。

 

だけど今ひとたび言おう。

そうして自分で読み方を狭めていって、物語を見れているの?

 

 

 

前情報、クリエイター、製作背景。

物語を読むうえで、それらは不純物にしかなりえない。

それらを加味して見る物語は、必然的に可能性が狭まってしまうのだ。

『作者がこう言ってんだからこの人物はこう考えてんだよ。この後の展開の意味はこれが答えなんだよ!!』

って確定した形で物語を見ても、私はつまらないと思うのです。

 

けど、時には『この演出いいな』とか『この声優さんの演技いいな』とか考えることもあったりする。

きっとそのあたりが、譲歩できる最大のラインなんじゃないかな。

 

それを製作背景とか声優の素顔にまで持ってくると話は別になってしまう。

 

 

私がドラマやアニメを見なくなっているのもそこに理由があったりする。

 

 

 

 

だから私は、作者は消えたものだと考えるようにしている。

世の中ではそういうのを”テクスト論”とかいうらしい。

 

 

物語は最初から最後まで漠としたものだ。

それを確固とした形に仕立て上げるのは読者であって、他の誰でもない。

 

 

それが一番達成できるコンテンツがエ口ゲなんだと考えたことも、私がエ口ゲを好きな理由なのかもしれないな、と。

 

 

そう、『魔女こいにっき』のジャバウォック王が語る”物語の美しさ”というものを、より近くに感じられるから。

 

 

 

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新島夕 『魔女こいにっき』 qoobrand 2014/5/30

 

 

 

 

(不純物…といったが、それは物語内には本来ないものを指す用語で言ったものだ。

ある程度はメーカーや監督、作者、声優の存在を認知したっていいと思う。

このご時世、不純物0の状態で物語を見れるわけないし、少しくらいの認知であれば妥協できると思うので。私はそこまで否定するほど杓子定規じゃないです。

というか、私もよくエ口ゲを買う際メーカーやライターくらいはさらっと確認のために認知しますし)

 

 

 

 

 

情報量の差異

 

 

やっと本題。蛇足長い。ほんとはもっと語りたいけど。

 

話を戻すが、私は物語を漠としたものだと考えている。

物語は漠としたもので、けれど壮大なパワーを持っていて、人の考え方や人生観を180度変えてくれる可能性に満ちている。人に、幸福を教えてくれる。

それが物語のあるべき姿だと、私は思っている。

 

だから、大きな不純物が入る作家論や作品論は好きじゃないんだという話をした。

 

 

では、その漠とした壮大なパワーを感じるためにはどうすればいいのか、というひとつの考えとして、自分に合うコンテンツを見つけることだ。

 

前述した実写化うんぬんの話に戻ってみる。

 

 

 

たとえば漫画が好きな人がいたとしよう。

その人は文字に固執せず、キャラのリアルな表情や構図など、主に絵に焦点を当てて、その傍らで文を読んで物語を理解している。

 

かたや小説の詩的な文体に固執する人がいたとする。

その人がもし漫画を手にしても、その固執を譲らぬ限りはおそらく楽しめることはないだろう。

 

同じように、漫画が好きな人が同じ固執のもとで小説を読んだって、きっと楽しめることはない。

 

極端な例だが、これは至極当然な話だ。

こういうのを”筋違い”というのだから。

 

 

それと同じことが、アニメ――実写間で起こっているのだと考える。

 

コンテンツが変わったことにより、同じ作品でも物語の見方を根本的に変えることを強要され、それが結果として不快につながる。

 

つまり、コンテンツごとに物語の見方や見るべきポイントというのがはじめから設定されているのだ。

そこに難なく目を当てられたり、価値を感じられる人が、そのコンテンツを楽しめるのだろうと思う。

 

 

ここでは詳しく語らないが、たとえば実写映画や有名俳優の出ているドラマが好きな人は、もちろん物語全体に目を向けることもあれば、知っている俳優さんがストーリー上でバカをやっていたり熱演しているさまを見たいがために、見ているのかもしれない。

 

『あの人が出ているからこれ見よう!』

っていうのはおそらくこういうことかと。

 

もしかしたら俳優なんてどうでもよくて、生身の人間が演じていないと物語が入ってこないという理由で見ている人もいるかもしれない。

 

(一応言っておくが、私はこの理由を不純物とか、間違っているとか思っていない)

 

 

 

逆に俳優や生身の演者にこだわりがない人にとっては、実写やドラマというのはさして優先度の高いコンテンツではないと思う。

そこに目を当てないから、ドラマに固執する理由も薄く、別に漫画やアニメで良くね?ってなる。

 

これが要するに、コンテンツごとの見方や見るべきポイントといったものだ。

 

 

 

 

 

ではエ口ゲはどうか。

 

 

 

 

 

よく喩えられる事例としては『エ口ゲは小説とアニメを足して2で割ったもの』というもの。

 

まあ、共感できなくはない。

 

 

小説と同じ、地の文も混ぜたキャラのセリフで物語が進みながら、

あるいはアニメと同様、絵と音でも物語が進む。

 

しかし小説のように詩的表現には営めないし、

アニメのように連続的な動きを終始見せられるわけではない。

 

 

なもんで、別にエ口ゲはふたつのいいとこどりをしているわけではないのだ。

 

一見、渾然一体としたはがゆいコンテンツだが、しかしながらこのコンテンツにしかない良さというものがある。

 

 

 

圧倒的な情報量だ。

 

 

 

物語を”見る”というくらいなので、当然我々は”視覚”を用いる。

これはどのコンテンツでもおなじだが、そこから先に差異ができる。

 

 

たとえば小説。

これは視覚だけに見えて、紙触りやページをめくる楽しさを味わえる”触覚”もつかっている。

視覚と触覚という曖昧な情報から、物語の情景を想像するという楽しさがある。

 

 

たとえばアニメ。

これはわかりやすいように視覚と聴覚を使っているが、小説とはまた違った視覚の使い方をしている。

文章を読まず画面の動きを見ているため、視覚において”言葉”による感受が一切ない。

我々人間は言葉で通じ合う生きものだ。情緒を感じ、感情を想起するためには必ずそこに”言葉”が使われる。

言葉が感受を作り出しているのだ。

しかし、小説ではそういう情緒が作られるように文章が練られているのに対し、アニメにはその文章がない。

 

アニメには、視覚的な”言葉”の感受がないのだ。

 

その代わり、絵や絵の動きの演出によって抽象的に情緒を作り出すことが出来る。

これが、小説とアニメの視覚的差異になる。

 

 

 

 

ちなみに漫画においても同様だ。小説と同じ視覚と触覚を使っているのに対し、視覚で得られる感受が異なる。

 

 

 

 

 

 

という感じでまとめていくと、エ口ゲの持つ情報量は他とはまるで異なる。

 

 

 

 

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魔女こいにっき

 

 

 

漫画に近いかもしれないが、アニメのような、絵による視覚的感受、

漫画より濃く、小説よりは薄い、文章による視覚的感受、

更にBGMや声優の演技による聴覚的感受、

触覚とは言えないかもしれないが、小説と近しく、自分の自由な動作(マウスとかキーボード)で物語を進められる感覚……

極論言っちゃえば、プロジェクターにつなげれば映画館ほどではないにせよ、アニメ以上の臨場感だって味わえる。

 

 

つまるところ、エ口ゲは感覚的な情報量が圧倒的に多いのだ。

 

 

 (……上の画像のやつは極端すぎるけど)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まとめに入るが、そんな情報量が多いエ口ゲだからこそ、私が信望する物語の壮大なパワーを雄大に感じることが出来る。

(最近映画でもいいな、て思ってきた。キミスイすっごくよかった)

 

エ口ゲはもはや独立した物語コンテンツで、大量の情報から複雑な感受を受けることができる、他とは全く異なる物語表現を武器とする。

演出も、声優の演技も、絵のタッチも、もちろん文章やシナリオも、エ口ゲで言えばそれはすべて物語を構成する要素であり、物語を表現する上でどれも欠いてはならないものなのだ。

それらがすべて絶妙に絡み合ったとき、読み手は、他にはない膨大な感受を受けることができる。

だからこそ、響くときはとんでもなく響く。 

 

 

その圧倒的な情報量こそ、エ口ゲの持つ物語性なのだ。

 

 

 

 

 

 

そこに、エ口ゲの物語的可能性があると信じたい。

 

 

 

 

 

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魔女こいにっき Complete Soundtrack ~Marching Caravan~

魔女こいにっき Complete Soundtrack ~Marching Caravan~

 

 

 

 

 

 

 

了。

最近『魔女こいにっき』の株が爆上がり中。