作品に対する読者の”責任” あなたのその目は本当に正しいの?
”ストーリーが浅い”、”シナリオが悪い”、”ご都合主義”、”メッセージ性がない”……
私はこのような単調な批評がとにかく嫌いだ。
エロゲにおいては特に某批評空間で嫌というほど目にしてきたこのありきたりな批評文句に、最近ますます嫌悪感を孕んできている。
好きに言わせておけばいい…と思いたいが、そうもいかない。
…エロゲが低迷期に陥っている現代、その要因は他のコンテンツ(ソシャゲ等)の発展や、コンテンツの閲覧やプレイの”無料化”が促進していること、趣向の多様化など実に様々。
しかし一部では、エロゲに携わるスタッフの戦力が減っていると指摘する声もある。
それは頭数はもちろん、個々の戦力も鑑みて、だ。
わからなくはない。
昨今のエロゲはどれも一過性のブームにしかならず、全盛期のような”名作”とうたわれるものはもはや誕生し得ない。
それをメーカーの実力不足につなぎ合わせるのは実に簡潔な論理展開だ。
しかしどうだろうか。本当にエロゲの低迷化はスタッフの責任だけにあるのか?
前置きが長くなったが、私が言いたいのはたった一言、こういうことだ。
”読者にも責任がある”
冒頭の話に戻れば、あれがこの一言を説明する一例になる。
年々増えていくあの手の批評をする者たちは、得てして作品に対する見方がずれており、正しい判断を怠っているのだ。
そういう者たちが傲岸にも市場を握っているから物語界の発展が見込めない…なんてのも理由のひとつとしてあるんじゃないか。
私はそういう視点で、嫌いだと称した。
・作品に対する見方とは?
あまり長々と書き連ねるのはやめて、さくっと本題に入ろう。
わかりやすい例として、現市場の最先端をいくKEYとゆずソフトの作品ふたつを考えてみてほしい。
まぁ、なんでもいいよ。私がプレイしたことのある作品で言うなら『Rewrite』と『サノバウィッチ』にでもしますかね。
…え?『Rewrite』はKEYじゃないって?うるせぇ。
とにかく、考えてほしいことは、その二作品をプレイする時の姿勢は同じか?ということ。
もっと言えば『サノバウィッチ』をプレイするのと同じ心持ちで『Rewrite』をプレイできるだろうか?
はっきり言う。無理だ。
『Rewrite』にサノバウィッチのような萌を求めてもお門違いだし、
『サノバウィッチ』にRewriteのようなストーリー性を求めてるのもおかしな話でしょう。
同じ見方で見ようとすれば、必ずどちらかで弊害が出て、その作品をプレイする意欲をなくしてしまう。
このふたつの作品をプレイしたことのある人なら誰もがわかること。
このふたつは本質的に異なった物語性を持つ作品なのだ。
これは極端な例だが、作品には作品ごとに定まったテーマがあり、それを無視して作品をプレイしたって合わないのは当然の話なのだ。
萌は萌に特化するよう構成されており、シリアスはシリアスに特化するよう構成されている。
それを見誤った時点で、その人はその物語に感激を受けることは絶対になく、結果として不満だけが残るわけ。
だから私は、作品に対して批評不満を言う前に、その批評不満はその作品に対して正しい批評不満なのかどうか考えるべきだと思う。
それが読者、プレイヤーの本来あるべき姿で、まるで自分たちを『お客様は神様』みたく持ち上げるのはいささか傲岸が過ぎるのではないかと、思うのです。
・では、どうすればいいのか
では具体的に、作品にはどういう見方のジャンルがあり、それらに対して適切な見方とは何なのか…という議題についてだが、確かにそれは難しい話でして。
悩みに悩みながらも色々考えた結果、物語はボトムアップ的とトップダウン的見方の二つに、大きく分かれるのではないかという仮説を立てることから始めました。
まだ思い付きの範囲だけど、整理がてら書いていきたい。
まず、世間一般的に”良い物語”とされるものの条件とはどういうものなのか。
これには複雑に絡み合った様々な要因があると思うが、根っこの部分はどれも等しいと思ってて、それはその人に響いたかどうかだけにあるんじゃないかと。
ありきたりな話、たとえばあるヒロインが病気で近々死ぬことを宣告された物語を書くとしよう。
書くとすれば、方針は以下の大きくふたつに絞られる。
A:それまでの話の道筋の中では病気に焦点を当てず、最後のある一点から一気にその話を持ち込んでいく。
B:始めから余命を言い渡されたヒロインとの交流を描くことを意識し、徹頭徹尾病気に関連した展開を持っていき、徐々にラストへと向かっていく。
どちらが良いとかではない。このふたつの物語では、物語全体を病気の話で彩るか否かという論議の時点ですでに違えているため、比較のしようがないのだ。
同じ病気の話でも、方針が違えば見る視点も変えざるを得ない。
私はAの物語に合う見方を特にボトムアップ的視点とおくことにした。
クライマックスにはじめて病気の話を持っていくが、それ以前との間には離れた溝がある。
ある一点だけの、ある瞬間だけに感動を絞った展開を狙い、最後に作品全体を評価させる視点。その一点だけを強烈に残すことで、その作品のテーマを決める。
すなわち、テーマ<展開 を重要視する。
反対に、Bをトップダウン的視点とする。
はじめからクライマックスに向けて道筋が立っており、作者でなく物語自身が話を広げようとする力に溢れている。
クライマックスではそれまでの展開や設定がすべて繋がって、作品全体を俯瞰した後にその一点を評価させる視点。作品全体を通した展開が、その作品のテーマになる。
テーマ>展開 を重要視する。
…わかるだろうか。言ってしまえば、主にシナリオ力のある作品とされるものはBに値する。
先に述べた『Rewrite』もそうだ。
あの話は、共通→個別→MOON→TERRAと、段階を踏んで丁寧に物語が編まれており、最後の瑚太朗の奔走もそのすべての総まとめになっている。
だからこそ、それまでの肯定をほとんど無視して最期だけに焦点を当てたって、そりゃ伝わるはずがない。全肯定を踏んでクライマックスに行くから味があるのだ。
トップダウン的視点でようやく『Rewrite』の本質が見えるため、反対にボトムアップ的視点では『Rewrite』は不快しか与えられない。
物語には、はじめに”理解”があって、次に”納得”がある。
人物の理解、世界観の理解、展開の理解。
人物の納得、世界観の納得、展開の納得……
どこかで見方を違えてしまえば、理解から納得までの道筋を見失ってしまう。
しかし見失ったことにすら気づけないでいると、最後には不満しか残らなくなる。
ストーリーがいいものをプレイしたい、それと一緒にえっちいものがいい。
笑えるものをやりたい、それと一緒に最後は泣けるものがいい。
ひとつの物語に自分の趣向にあった期待を寄せたいと思うのは無理もないが、そんな完璧な作品は数えるほどしかない。
自分に合わなかった要素を粗探しして、それを作品の不出来具合のせいにするにはいささか無理がある。
”納得”の出来ない作品は、なぜ納得ができないのかを一度でも考えてみると、物語に対する向き合い方が謙虚になると思います。
なんでも頭ごなしに批判するよりも、そういう謙虚なユーザーの考察、レビューの方が、私は見ていて気持ちいいですね。
とまぁ、今日の話は物語論のそれでしたが、しかし今でも私の中でもやもやしている部分があり、絶賛考察中であります。
物語が人に与える効果、人が物語に対する向き合い方…そういうのをもっともっとつきつめていって、最終的には自分の納得のいく”物語心理学”みたいなものを築いていきたいですね。
了。
今やってるエロゲ(数か月ぶり)↓