白黒部屋のねこたまご

気ままに花咲く思索の庭園。物語や理系関連に対し益体もないことを呟くブログ。

劇場アニメ『君の膵臓をたべたい』感想

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僕の春の思い出。
女の一生の思い出。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
衝撃的なタイトルから端を発し、書籍に実写映画化、そして昨年9月には劇場アニメとして全国上映を果たし、一躍世を席巻した感動巨編『君の膵臓をたべたい』。
 
特に劇場アニメの方は、昨月にDVDBlu-rayが発売となりました。
早速購入した私は、映画館ですでに5回も見ているにも飽きたらず、また視聴。
 
……いいですね。
何度見てもあの映画は、本当に心が締め付けられます。
 
 
 
そんなわけで、今日はこの劇場アニメ『君の膵臓をたべたい』、通称”キミスイ”の感想……
それも、ネタバレなしで、
感想というよりは”この物語で私が気に入ったところ”を列挙し、キミスイの魅力をお伝えしていきたいなと思います(超久しぶりながら)。
 
 
 
アニメ公式サイト↓
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
私はそもそもこの作品を、店頭で並んでいたのを見た程度にしか知らず、
その書籍を買ってもいなければ、実写映画すらも見に行ってない、
 
本当に前情報も何もない、大まかなストーリーを知っているくらいの、まっさらな状態で映画館に行ったのでした。
(強いて言えば同作者の著書『また、同じ夢を見ていた』を読んだことがあるくらい)
 
 
この歳となってはそうそうないであろう、純粋な視線で物語を見れた瞬間でした。
だからあんなにも心を打たれたのだと思います。
 
ぶっちゃけ、キミスイ私がこれまで見たアニメ作品、映画を含めても、ぶっちぎりで一番大好きだと言い張れる作品です。
(エロゲは含まない。恋カケがあるし)
 
 
そのキミスイの一番の魅力……
多くの人は、その悲しいストーリーやタイトルを俎上に載せるところでしょうが、
私は、作品の雰囲気と、二人の独特な恋愛観に、それがあるのだと思っております。
 
 
 
 
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・作品の雰囲気について
 
そもそもエロゲや映画などの映像作品は、単にストーリーが良いだけでは良作と言われるには足りません。
 
これはもう誰もが周知のとおり、映像作品を形作っているものは絵や音楽、演者や演出のすべてです。
シナリオというのはその根幹に過ぎず、抽象的なシナリオ像を具体的に表現させたものが上記のものになるわけです。
 
つまり、絵や音楽等の芸術・技術は、シナリオの表象であると考えてもいい。
 
 
シナリオの持ち味を活かすには、当然ながらその表象方法が適切でないといけない。
 
以前にもどこかでお話した通り、『日常』のような根っからのコメディ系に『フルーツバスケット』のような純恋愛系の作画は似合わないでしょう。つまりそういうことです。
 
 
 
評論家を気取るわけではありませんが、私は、そのシナリオの持つ雰囲気と表象されているものが合致していないと、とても気持ち悪く感じるのです。誰だってそうだと思いますが。
 
 
では、このキミスイではどうだったかというと、これがまた面白い雰囲気づくりをしていたわけですね。
 
 
 
 
絵柄に関してはサムネや公式サイトにもあるような、まぁいたって普通の絵柄……と思いきや、
考えてみれば今までの学園もの(もしくは同じ雰囲気を持った恋愛系のもの)で、このような普遍的な作画というのはあまり例がない気がします。
 
こと恋愛系においては少女漫画風のタッチがまず浮かぶし、学園ものといえば女の子キャラは特に萌絵に走った、主張の強いタッチばかりな気もする。
また、色彩を濃くすればするだけ、感傷的な雰囲気には遠ざかる。
 
かの有名な『君の名は。』は、似たような作画でありながら、あれはそもそも世界観がファンタジーでありましたから違和感なく見れたのであって、
キミスイのような学園ものでこの作画は、少々場違いなようにも感じる。
 
 
つまるところ、萌絵に走らない、しかしリアルさも出し過ぎない、色彩を濃いめに設定した、言ってしまえば”パッと見特徴のない絵柄”
これが、キミスイの絵柄でした。さくらのキャラデザは可愛いですけどね。
 
 
 
 
それがどれだけの効果をもたらしたのか。
これは実際に見に行かなくてもPVなんかで分かるかと思いますが、
 
色彩を濃くし、また他に目立った特徴を表に出さないことで、
とある一瞬のシーンでのみ光加減に富むことで、瞬間的な感動とエモーショナルな雰囲気の生成に成功したのだと、私は考えています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
起伏の少ない学園ものですから、大事なシーンではやはり目立った演出を取り入れたい。
その中で、夕陽や朝日を基調とした光の演出は、感傷的な作画(恋カケのような薄い絵柄)ではできない演出だと思う。
 
こういうのを随所に入れることによって、思わずはっと言わせるような、視聴者の脳裏に残りやすい場面ができあがるわけです。
この、”脳裏に残りやすい”というのが重要なのです。
 
 
 
また、本作品は”春”というワードが物語に大きく関わっており、それだけに”桜”というのは欠かせない演出です。
 
しかし、本作で桜が出てくるのは序盤の30分程度のみ。
終盤のクライマックスではほとんど登場しません。時期的にしょうがないけど。
 
大事な要素でありながら、それが出てくるのが、まだ感動も何もない最初の部分だけというのは、また思いきった設計。
しかしその最初の部分で出てくる桜の演出が、これまた細かい
 
上述した光加減もさることながら、花びら一枚一枚に丁寧な施しを入れてあるのがわかります。
 
 
 
………で、なぜこのような作画の話ばかりしたかというと、
 
私が言いたいのは、
作画が細かかったり、ただ丁寧であればいいという話ではなく、
それが重要な貯蓄になる演出だったのかどうか、ということです。
 
 
 
 
 
 
こと感動作においては、そこに至るまでの経緯が肝心なのは当たり前な話ですが、
その”経緯”というのにも、”ストーリーの経緯”と”雰囲気づくりの経緯”があると、私は思っています。
 
ただストーリーの経緯だけを貯蓄するだけなら、小説にだってできる。
 
しかし、文では描ききれないストーリーの雰囲気を貯蓄するのは、映像作品にしかできないことです。
 
しかも、ただつらつらと同じ雰囲気になるよう作画をしていけばいいということでもなく。
作中にメリハリを持たせたりして、
いかに感動のラストまでに、視聴者に印象深いシーンを与えたか、いかにそれを感傷的に伝えられたかが一番の勝負になるわけです。
 
 
それが成功したとき、視聴者は、まるで物語に包まれたかのような、オーバーフローしたかのような、大きな感動に覆われる。
 
 
そのひとつの手法として、キミスイの作画演出は、
光加減の絶妙なメリハリもあり、序盤だけに桜という感傷的な要素を投入するなどして、うまいとこ貯蓄に成功しているのだと思います。
 
 
 
 
まとめとしては、キミスイの雰囲気づくりは近年まれに見る丁寧さでした、というところかな。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
・二人の独特な恋愛観について
 
これに関してはネタバレになるので深くは語れませんが、ひとつだけ言っておくと、キミスイの中で描かれている恋愛というのは、多くの人が想像するようなありふれたものではない
 
そりゃヒロインが死ぬお話なんだから普通じゃないのは当たり前でしょー…と思うかもしれないが、それを踏まえても、だ。
 
 
そもそも”恋愛”っていったい何なのか、真剣に考えたことはあるだろうか?
 
まぁ考えたところで答えのない命題だし、そんなものに熟孝するより実際に恋しようぜーってなるのもわからなくはないが、今一度、真剣に考えてみてほしい。
 
自分の中で、恋愛とはこうだと言える何かがあるのなら、また言える何かが無くても真剣に考えたことがありさえすれば、キミスイで描かれている恋愛観のその良さがすっと理解できる。
 
 
まるで答えもない恋愛というものに、作中で登場する二人はほぼ明確な答えを示しているのだ。
 
しかし、それがいかに尊い感情であるものか、どれほど感傷的なものであるかを理解するのには、きっと惰性で恋愛を考えているような人には掴めない。
 
だから見るなとは言わないけれど、この”独特な恋愛観”こそがキミスイの根幹のテーマにもなっており、一番の魅力たらしめる要素なので、もったいないなとは思います。
 
 
 
 
主人公やヒロインが培ってきた、二人だけの”恋愛”が、ラストに終わりを迎える時……そのときこそが、この作品の一番の見せ場、クライマックスなのです。
 
まぁそんなに難しく考えなくても作中で明確に答えが出ているので、せめてそういう部分に目を向けてくれたら、きっと、このキミスイの良さがあなたにもわかることでしょう。
 
 
 
 
私自身、一度大学のとある講義のレポートにて、本気で恋愛とはなにかについて考えて提出した経験もあり、
また一番好きな作品がそもそもそういう系統の作品であったことから、恋愛に関しては人並み以上にアンテナびんびんなのですが、
 
それだけに、独特な恋愛観を謳った本作は、心をつんざくような衝撃を与えてきました。もう、本当に。
 
 
 
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他にも、音楽関連にもおススメをします。
 
作中のBGMには目立ったものはありませんが、それもこれも、すべてはEDテーマを引き立たせるものだと考えれば納得もの。
 
ぶっちゃけ私も、EDテーマに涙腺の最終防衛ラインを切られたようなものですので…

 

ファンファーレ/春夏秋冬(初回生産限定盤)(DVD付)

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 (あ、でも、メインテーマかな?Blu-rayのオプション画面で流れているあのBGMは印象深かったです。あれ好きです)
 
 
 
 
 
 
 
短いですが、今回はこれで終わり。
 
まとめとして、劇場アニメ『君の膵臓をたべたい』は、
 
感動作としての雰囲気づくりの上手さもさることながら、
作中で描かれているその”独特な恋愛観”がなによりも魅力的な、
近年まれに見る傑作アニメ映画だと言い張ります。
 
普遍的な内容・作画だけにどの層もとっかかりやすいので、全力で視聴することをお勧めします。
 
違法視聴とかではなく、Blu-ray買って、おうちのテレビで見た方がより感動できますよ。
 
 
 
 
了。
気が向いたらネタバレ全開でレビューもしてみたいですね。その方が語りやすいし。

 

 

君の膵臓をたべたい (双葉文庫)

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『恋×シンアイ彼女』考察 二人のたどり着いた恋愛観とは

 

 

 ネットでもいいけれど、たまにはリアルで思いっきりエ口ゲの話で盛り上がりたいなって思うことがありまして。

話せる相手は結構いるんだけど、ほらエ口ゲの世界って狭いようでとても広いから趣味趣向が合わない場合がほとんどなのです。

 

特に、私が大好きな作品ほどみんな未プレイだったりする場合が多い。

逆にみんなが大好きな作品ほど、自分はやっていなかったりする。

それはそれで会話が弾んで楽しかったりしますけどね。

 

 

そんな十人十色なプレイヤーばかりだからこそ、話をより広げられるような質問が、ひとつ、ありますよね。

 

 

あるいはそれは、エ口ゲにそれほど造詣の深くない人からもされる質問です。

 

 

 

 

 

 

『ねぇ、君の一番好きな作品はなに?』

 

 

 

 

 

 

 

うむ。

じゃあ教えてあげよう。

 

それは、誰にも理解されない恋をつづって生きてきた、二人だけの恋物語だ。

 

 

 

 

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*ネタバレ注意!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 前置き

 

というわけで、私の一番大好きな作品『恋×シンアイ彼女』の感想が今日のメイン。

感想っつーか考察がメインなんですが、私が今回テーマとするのは『洸太郎と星奏の恋愛観』です。

 

批判の声も多いLast Episodeで、洸太郎と星奏のあの行動の背景と、詳しく語られなかった彼らの恋愛観、その良さを、私なりの解釈で考察していきたいと思う。

 

なもんで、星奏がらみのない他のルートはほぼ無視していくつもり。

あと、あらすじとか詳細な出来事の流れとかは書きません。

考察って言ってるのでわかると思いますが、プレイ済のユーザー向けの内容になっております。あしからず。 

 

 

 

ちょっと長文になるので、暇があるときにでもお読みいただけたらと思います。

 

 

 

*2019/1/19 追記&編集

恋愛観についての考察をより深く行いました。

 

 

 

 〜目次〜

1.『恋×シンアイ彼女』が批判された理由について

……”納得”のできない恋愛観

2.アルファコロンを巡る二人の想い

……書き手である洸太郎の中途半端な恋愛観

……読み手であった星奏の抱えていた気持ち

3.姫野星奏の葛藤

……”恋”の正体について

……終章での覚悟

4.洸太郎がたどり着いた先

……”愛”の正体について

5.まとめ 二人のたどり着いた恋愛観

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1.『恋×シンアイ彼女』が批判された理由について

 

 いきなり本題から反れる話題だが、本編の考察に当たって今一度確認すべき重要なところなので語ります。

 

某批評空間、およびAmazonレビューなどで多くみられる批判内容はおしなべて”Last Episode”に対する批判が主でした。

星奏だけは許さない。他のヒロイン、個別ルートまでは良かった。そんな声が多々。

 

彼らが不満に思っているのは個別ルートの終わりからLast Episodeまで続いた星奏の造反行為のような行動に対してであり、幼い頃から一筋に星奏を想い続けた洸太郎が何度も裏切られて、結局最後まで報われなかったことに腹を立てたゆえの批判だったように思えます。

 

確かに星奏はしっかりとした話し合いの場すら設けず、逃げるように洸太郎の前から去っては寂しくなって帰ってきて、また機が熟したら逃げるように去る、というのを何度も繰り返してきた。

腹が立つのも仕方ないように思う。

 

よくスカッとジャパンや2chの板にあるような「浮気された話」になぞらえれば、妻に不倫されたけど責めることもできなくて結局そのままお流れになった、みたいな感じになるでしょうか。

事実、同じような怒りをこの作品で覚えた方が多いのでは?

 

 

はじめからそういう作品であることをほのめかしていれば良かったものの、発売前の「ささやかな恋を描く」という宣伝で普通の学園ものという印象を与えてしまった分、いざ蓋を開けてみればこのエロゲヒロインらしからぬ身勝手さが波及して、姫野星奏は、そして『恋×シンアイ彼女』はバッシングの嵐に見舞われたのだと私は見ております。

 

 

つまり、多くの人が二人の結末に”納得できなかった”

 

 

 

メーカーに対して四の五の言っても仕方ない。

私はあくまで物語について語るつもりでいるので、肯定派から見るこの作品の私見を言うと、

 

この作品にサクセスストーリーを望むのは筋違いだということ。

 

そして、その”納得できない恋愛”こそがテーマになっていたということ。

 

 

です。

以下、それらについての本題に入ります。

 

 

(関連しそうな記事→作品に対する読者の”責任” あなたのその目は本当に正しいの? - 白黒部屋のねこたまご

 

 

 

 

 

 

 

2.アルファコロンを巡る二人の想い

 

 

つまるところ、俺の恋愛観ってやつが、中途半端だからで、俺はそれを自覚しているからなんだ。

 

恋×シンアイ彼女 國見洸太郎

 

 

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 本作の主人公である彼を語るうえで決して欠かせないのは、彼が書いた小説『アルファコロンシリーズ』。

作中、点々とその描写が見られるだけで全体像こそつかみ取れないが、私はそのアルファコロンに書かれているものこそ、國見洸太郎の中途半端な恋愛観だと思っている。

それはいったいどういうものか。

アルファコロンで描かれた内容と彼の言動から、まずはそれを推測していこう。

 

 

 

アルファコロン……星の音を奏でる少女と、それに惹かれた少年のお話。

 

 

初プレイ時、私はこのアルファコロンの話の中で、アルファコロンが洸太郎の比喩だと考えていた。

そして星奏の方が少年で……

 

でも最近考えるに、それは半分正解で半分間違いだと気づく。

 

 

つまるところ、それは読み手やその時々の立場によって変動したりする。

  

夜空から振る星の音を楽しみに聞いていたのはどちらだったか。

そんな少年のために自分の正体を明かさず演奏し続けたのはどちらだったか。

 

洸太郎も星奏も、状況によってどちらにだって該当する。

 

 

星奏に憧れ、星奏に届けと願い、星へたどり着きたかった気持ち。

洸太郎を想い、洸太郎がくれた星の音を胸に、星になろうとした気持ち。

 

 

洸太郎も星奏も、そのお話の登場人物それぞれに自分を重ねていたのだ。

 

 

 

 

洸太郎がそんなアルファコロンの話を書くのは決まって星奏に振られた……星奏に自分の元から去られた時だ。

自分の失意、失恋の気持ちを、ふたつの立場から彼は表現する。

今の自分がどういう感情か。相手にどうなってほしいかなど、物語に自分の理想をつき込める。

 

でもそれは決して恨みとか、マイナスな感情を押し込めたものではなく、彼はただ、星奏を追っていたいという想いだけのもとで筆を動かしているのだ。

 

 

どうして俺は、小説を書くんだろう

 

俺が小説を書いて、もしそれを彼女が読んだところで、どうなるっていうのか。

 

ただ、俺もまた全力で何かをしてないと、あっという間に、彼女を見失うような気がした……。

 

そうして全力で俺も走っていれば、一瞬でも、彼女に会えるような……そんな気がした。

 

 

恋×シンアイ彼女 國見洸太郎

 

 

全力でなにかをしていなければ、本当に彼女を見失っていまう。

けれど想いをどれだけ小説にとどめたところで彼女に届くかどうかはわからない。

……だけどやるしかない。彼女を思うといてもたってもいられない。

そういう想いの表れが、アルファコロンという物語になっている。

 

 これこそが洸太郎の”恋愛観”なのではないだろうか。

 

 

 

 

星奏ルート終盤にて、彼女の存在がGLORIOUS DAYSという、自分の想像していたよりずっと大きなものであったと知ってからは、洸太郎の中のアルファコロン(=星奏)はより大きなものになった。

 

アルファコロンの中に、このようなシーンがある。

 

――夜空が届けてくれたと思っていた曲が、かつて路地裏で会った少女の奏でていたもので、少年はそれを自分の曲にしてしまっていた――

 

このシーンから読み取れるものはすなわち、洸太郎の星奏に対する印象にある

小説を書き続けていた自分はいつの間にか星奏の才気あふれる輝きに魅入られていて、つまるところ自分の小説とは星奏がくれた星の音であり、星奏がいたからこそ書けたものであった。ということだろう。

 

でも、そんな輝きをくれた星にはたどり着けやしない。

 

だからアルファコロンは少年の前で姿を見せられず、最後はそのまま去っていってしまった。

『アルファコロン、それは路地裏に、夜空に。誰かが見た、浪漫だよ』

『さよならってこと』と。

自分では、星奏のような存在のそばにいられないと悟っていたから。

 

つまりアルファコロンにしたためていた洸太郎の感情というのは、おしなべて星奏への憧れであるように思う。

 

洸太郎は、憧れだけで終わってしまうような恋心だから中途半端だと自嘲していたのだ。

 

 

 

 

 

 

では読者側だった星奏はどのようにこの作品を読んでいただろうか。

 

それは、高校生となった彼女が突如故郷に帰ってきたその目的から推測できる。

 

 

作曲家として陥ったスランプからの脱却――彼女はそれを“星の音を聞きに来た”と称していた。

 

星の音――それはアルファコロンの引用句である。

 

星奏にとっては、あの小説の中の”少年”こそが自分の方であり、夜空から星の音を与えるアルファコロンが洸太郎の方なのだ。

 

アルファコロンとは少年にとって憧れであり、自分の原点であり、決して届かない存在の象徴でもある。

 

話の中で、少年が新進気鋭のピアニストとなって演奏会をするシーンがあったが、そのとき少年は路地裏で聞いた曲……すなわちアルファコロンによって届けられた曲を、自分のものとして演奏する。

この話から、自分の才(洸太郎にとっては小説を書く動機、星奏にとっては音楽を作る動機)をくれた出発点はアルファコロン――星奏にとって洸太郎にあったのだと考えることができる。

  

洸太郎自身は星奏を想って書いた作品でも、読み手側になった星奏からしたら自分こそ少年の位置にいるのだと考えるだろう。 

つまり星奏にとってアルファコロンという作品は、音楽を作りはじめたその初心に還ることの出来る作品となっているわけだ。

 

 

だから彼女がスランプになって戻ってくる場所は、いつだって洸太郎のもとなのである。

洸太郎がいたから音楽があり、音楽があったから洸太郎を想えるのだから。

 

GLORIOUS DAYSの代表曲「GLORIOUS DAYS」の歌詞中にもその断片が見て取れる

 

 

どこかで聞いた  メロディ

誰にも  届かなくてもいい

たったひとり 君のために

 

 

まだおそらく中学生だった頃。

初恋の彼からもらった恋文を、『そんなもの捨ててしまいなさい』とメンバーにどやされ、ずっと寂しい思いをしながら遠くにいる彼を想って手掛けたこの曲には、想いは届かないとわかっていても届かせずにはいられない、彼女の“恋”が綴られている。

 

きっと彼女は、そうやって遠くにいる洸太郎を想い続け、いつかアルファコロンの中で語られていた『会いたい人に会うなら、有名になればいい』という言葉を信じて音楽を作り続けていたんだ。

 

他でもなく、洸太郎に恋心を届かせるために。

 

 

わかるだろうか?

二人は小学生のときのあの告白以降、ずっとすれ違いの恋をしていたんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

3.姫野星奏の葛藤

 

 

 

 

「つらくなって、一人になって……」

 

「でも、そうしたら……洸太郎君に会いたくなる」

 

「一人はいやだから」

 

「卑怯でもなんでも……やっぱり好きだから」

 

 

 

 

  

 彼女の行動の背景を語るにあたり、『姫野星奏は本当に洸太郎を好きだったのか?あるいは洸太郎に本気で恋をしていたのか?』という議論は実にナンセンスであり、彼女にとって音楽と洸太郎は、切っても切り離せないくらいどちらも大切なものであったというのはもはや疑いようもないことだというのを、まずは押さえておきたい。

 

アルファコロンのめぐる星奏の想いを考えればわかるとおり、欲を言えば音楽も洸太郎も、どちらも手にしたいほどかけがえのないものだった。

だけどGLORIOUS DAYSの仕事状況や、メンバーや事務所の間で抱えている問題などのせいで、どちらをも手に入れることは現実的に不可能だったのである。

 

この背景があるのに、某レビューで言われているような「洸太郎を裏切るな」という通りにすれば、星奏は音楽を失うことにも繋がる。

同時に、洸太郎自身も小説を失うことにも繋がるだろう。それは、どちらも星に届いてしまう事に他ならないから。届いてしまえば、前みたく手を届かせたいと願う必要がなくなるから。

 

そして、それこそが”恋”というものの正体であるように思う。

 

 

…恋をする気持ち、というのを感じたことがあるだろうか?

好きで好きでたまらない。あの子がほしい。あの子の側にいたい。心臓がはち切れんばかりに高鳴って、もう何もできなくなる。そういう感情のことだ。

 

しかしどうだろう。いざ恋が成就した後、そういう感情ってなくなってしまわないか?

側にいてドキドキすることはあっても、もう手に入れてしまったのだから「あの子が欲しい、あの子の側に居たくてたまらないんだっ!」ってのたうちまわる必要はない。

手に入らないものを願って焦がれることはもうないんだ。

 

つまり、恋は叶った時点で恋じゃなくなるのだ。

 

 

恋というのは、求めても手の入らないものに対して、それでも手を伸ばさずにはいられない渇望の顕れなのだ。

 

 

それじゃダメでしょ、叶わなきゃ意味ないじゃん、というのはわかる。

しかし、恋は叶ってこそ恋というその考えが、星奏たちの想いから自分たちを遠ざけているようにも私は思う。

 

前述したGLORIOUS DAYSの歌詞についてもそうだが、アルファコロンの物語観からも、この”恋”の考え方は見てとれると思う。

 

こういうと勘違いされそうなので念を押しておくが、別に星奏はそういう恋をしたくてわざと洸太郎から離れた、ということを言いたいのではない。

むしろ、そのような恋にはなんのメリットもない。だって想うだけ想って結局叶わないなんてつらいだけでしょう?

しかし星奏はその道を選んだ。音楽を選択しながら、心ではずっと遠くにいる洸太郎のことを想い続けた。

他でもなく、そうするべきだと思ったからなんだよ。

 

叶う叶わないの二元論じゃないんだぞって話。

 

 

 

それが顕著にみられるのは終章だろうか。 

 

バンドが解散し、すべてをやり切って、もう思い残すことはないと言って星奏は再び洸太郎に会いに来たが、メンバーが事務所の負債をかかえていることを知ってふたたび洸太郎のもとを去って音楽界を駆けまわる。

その際洸太郎に残した置手紙にはメンバーの負債や今後の自分について一切記しておらず、すべて自分一人で抱え込んで、『二度と姿を見せない』とまで誓って去っていったのだった。

 

 

なぜ、星奏はまたも洸太郎を裏切ったのか?

『二度と姿を見せない』って、なんでそんな残酷なことが言えるのか?

やはり洸太郎よりも音楽…あのバンドのメンバーのことが大事だったから、結婚を申し出ても断って出て行ってしまったんじゃないか?

…それは、あまりにも勝手すぎないではなかろうか?

 

 

確かにそうだろう。

けれどそれこそが、彼女の葛藤の末に見出した”恋”の道なのだと思う。

 

その答えとなる一文がこれだ。

 

 

「あなたはただ、全力だったんだと思います」

 

「あなたが全力であるべきものに対して」

 

 

恋×シンアイ彼女 國見洸太郎

 

 

 

全力…それはいったいどういうことだろう。 

 

彼女にとってそれは、洸太郎という星の音を頼らないという決死の覚悟の表れであったんじゃなかろうか。

 

負債の話をすれば、きっと洸太郎は協力してくれるだろう。

だけどそれではいけない。メンバーたちが必死な思いで生きてきているのに、自分ばかりが安寧にうつつを抜かしたままメンバーを助けにいこうだなんて、そんな甘えたことがあってはならない。

…彼女はきっとそのような考えのもとで、洸太郎のもとを去っていったのだ。

 

洸太郎と音楽を、両手で持つことはできないから。

 

しかし、それでも長年にわたる洸太郎への恋心が消えることはない。 

そもそも、高校時代からたびたび故郷の地へ帰ってきていたのは、それだけ洸太郎のいない世界は寂しくつらいものだったからだと嘆いていたこともあった。

そんな苦痛の経験が二度もあるのに、このとき彼女は以降ずっと、記憶の中の洸太郎を思い浮かべるだけの恋に生きていくことにしたのだ。

 

彼女の中で、遠くで洸太郎を想うだけの恋というのは病同然のつらいものであるはず。

 

星奏は、叶わない恋という重病を背負う覚悟のもとで、

永遠の寂しさを承知のもとで、

自分の幸せも想いもすべて捨て去って、

極限まで自分追い込むくらいしなければ、負債を抱えた友人を救えない…音楽を貫けないと判断したのだ。

 

 

ずっと昔、あなたが勇気を出して手紙をくれたこと

 

そして指輪の箱をさしだしてくれたこと

 

あの瞬間を、ずっと大事にしながら私は生きていくと思います。

 

 

 

 

 

これが、姫野星奏の全力の”恋”だったのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

4.洸太郎がたどり着いた先

 

さて、そんな星奏を最後まで見届けた洸太郎の行きついた先こそ、この『恋×シンアイ彼女』の致す最後と言えるだろう。

 

思えば洸太郎の恋というのは本当に一途なもので、彼は幼い頃からずっと星奏を追い求めて生きてきた。

一瞬届いたかのように見えたその想いが二度三度と破られてきたとしても、もう二度と星奏に会えることはないとわかっていても、星奏を一途に想い続けていた。

 

星奏への恋に生きてきた、と言ってもいいくらいの乙女な人生だ。

 

 

しかし彼の気持ちは星奏と似ているようで若干違う。

アルファコロンが星奏への恋が叶わなかった時に書く小説であるように、洸太郎にとってはなにより先に星奏への恋があり、その想いを綴るために小説があるのだ。

音楽と洸太郎、どちらも同じくらい大事だった星奏とはそこが異なる。

 

失意ののちにルポライターになった終章の洸太郎を見てみよう。

 

長年の下積み期間を経て彼が起こした行動は、星奏のいたGLORIOUS DAYSの特集を組むことだった。

大人達の世界に葬られた彼女たちの叫びを代弁するかのように、彼は必死で取材をしては世間に記事をばらまく。

それは当てつけでも、社会への怒りでもなんでもない。

星奏たちが抱えていた闇を世間に理解してほしいとか、そんな気持ちはあったのかもしれないけど、実際それは些細なものだろう。

 

彼の書いた記事は、ただただ、彼の中途半端な恋愛観そのものの表れでしかなかった。

 

 

どうしてルポライターになったのか

 

それはもう、アホらしいくらい単純なことで

 

つまり、俺は、星奏を追いかけたかったんだ

 

彼女の、その痕跡の最先端まで、行ってみたかった―

 

 

恋×シンアイ彼女 國見洸太郎 

 

 

しかし結果、それはどこにも届かなかった。

 

記事は世間を揺るがすことはなく、挙句の果てにルポライターを首になって、星奏へ向けた小説を書き始めるも、それすらも星奏のもとへ届いたかどうかはわからない。

世間ではブームにもならず、さびれて風化していくような寂しい結果に終わったことだろう。

 

ただの憧れから起こした行動は、結局はどこにも届かせられなかったのだ。

 

 

それなのに、そんな叶わない恋を背負って懸命に生き続けたその長い日々を、洸太郎は最後にこうつづっている。

 

 

「いろんなものを犠牲にしながら君が駆け抜けた先には、もしかしたら、寂しさだけ待っていたのかもしれません」

 

「君を全力で追い求めた俺もまた、どこにもたどり着けませんでした」

 

「だけど思い返すと、その季節はとても美しく輝いています。

なにものにも代えがたい、宝物です」

 

手紙は…彼女の心を揺さぶるほどじゃなかったけれど。

 

俺が願ったような形でなくても、ちゃんと届いていて。

 

彼女が一時でも、それで慰められたとしたら、すべては、なにも、無駄じゃなかった。

 

 

恋×シンアイ彼女 國見洸太郎

 

 

 

自分の想いは届かなかったというのに、彼はどうしてかとても前向きになれている。

この心情はきっと誰にも理解されることはないけれど、それでも確かに洸太郎は小説に自分の想いを書き続け、星奏へたどり着こうとする思いを捨てなかった。 

 

たとえそれが届かなくたって、届かせようとがんばったという事実さえあれば、洸太郎にとってはそれでいいのだ。

 

そして、そんな思いが少しでも星奏に伝わって、ほんの少しでも慰めになれたらそれでいいと言うのだ。

 

本当に、どこまで純粋なのだろう。

何度裏切られても星奏を好きでいることは変わらないから、自分はそのために行動を起こす。それで星奏を慰められればいいんだって思える。

 

ここからわかるように、洸太郎にとって裏切られたという事実は重要じゃない

また、星奏に自分の想いがすべて伝わったかどうかというのもさして重要ではない。

 

ただ、洸太郎は星奏のことが好きだった。 結果がどうであれ、星奏を好きでいたかった。

 

 

 

 

そういうのを、人は”愛”というんじゃないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

5.まとめ 二人のたどり着いた恋愛観

 

二人の辿り着いた最期を考察することで、恋と愛…そして”恋愛”というものの正体をはじめて言及することができる。

 

恋というのは、求めても手の入らないものに対して、それでも手を伸ばさずにはいられない渇望の顕れ

ようするに、叶わないことを前提とした感情こそが真の恋なのだ、ということだ。

 

振られてから長年空虚な生活を続けてきた洸太郎も、たびたび洸太郎に会いに来たくなるほどひとりが嫌で寂しかったという星奏も、そんな報われない恋心を抱えながら、全力で日々を生きてきた。

洸太郎はルポライターになってまで星奏を追い、星奏は自分のすべてを投げ打ってメンバーの負債に身を投じた。

 

 

しかし彼らの行動はまるで意味がないし、理にかなっていない。

やっとの思いで掴めた安寧の幸福を投げ打って仲間のためひとりで奔走する星奏も、 友人を救いたいなら洸太郎に協力を仰ぎ効率よく救えばいい。

ただバンド解散の真相を連ねた記事を書きなぐる洸太郎も、星奏にたどり着きたいなら書き物なんかしてないで探しに行ったらいい。

 

 

わかっていても彼らがそれをしなかったのは、それは全力じゃないと判断したからだ。

そうすることで目的を達成しても、きっと望んだ世界にいけないと判断したからだ。

 

なんて胡乱な理由だろう。しかしそれこそが彼らの選んだ道であり、彼らにとって価値のある世界なのだ。

 

 

 

 

叶わない恋がつらいものだというのなら、

 

そしてそれをどうしても拭い去ることが出来ないのなら、

 

届かないことを承知で、全力でそれを追い求めることこそが、“叶わない恋”に対する我々のあるべき向き合い方なのではないだろか。

 

きっとそれが届かなかったとしても、その日々を無駄と感じないほど全力だったならば、叶わない恋でも悪くはないと思えるんじゃないだろうか。

 

 

事実、洸太郎はそうして生きたそれらの季節を苦痛と言わず、宝物だと称したのだ。

 

そう思えるようになったのは他でもない。

彼はただ必死で、全力で、彼女を追い求める自分の恋に忠実だったからだ

 

 

「恋をしたら、どうしたって舞い上がらずにはいられない」

 

「そこでがんばるか、がんばらないかは、もう、そいつ次第で」

 

「もちろん、空回って、滑稽な落ちになることはあるだろうけど…」

 

「俺はがんばることに決めたんです。もう、ずっと昔に」

 

 

恋×シンアイ彼女 國見洸太郎

 

 

 

 

そして、最後にようやく星奏の世界にたどりつくことのできた洸太郎は、彼女の全力の人生を称え、自分はその一部になれたことを誇りに思うことができた。

 

それが洸太郎の”愛”だ。結果や理屈に左右されない、変わらず好きだという気持ちを尊重する感情なのだ。

 

 

 

二人はお互いを”恋する”ことから始まって、”愛すること”に執着した。

これが二人のたどり着いた”恋愛観”である、といってもいいのではなかろうか。

 

 

 

 

 

 

とてもささやかなもののために、俺たちは、全力で、あの日々を生きた。

 

こっけいでもつたなくても、必死だった。

 

 

恋×シンアイ彼女 國見洸太郎

 

 

恋×シンアイ彼女』で見られた”恋愛観”は、届かないものを届かせるために全力で生きるということだった。

 

なにかひとつ、自分の想いに全力になれるものがあるのだとしたら、その結果がどうであれ、きっとその先には他の者には見えない素晴らしい世界が待っているのだろう。

 

 

 

きっと、そんな日々がGLORIOUS DAYSなんだ。

 

 

 

 

何回 同じことを したって

意味は ないけど

それが くだらないことだって 分かってるけど

grow up そうやって 僕ら きっと

選んできたんだ

ここが 自分たちにとっての

素晴らしい世界―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

皆さんの日々は、GLORIOUS DAYS ですか?

 

 

 

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了。

 

昔、大学のとある授業の課題で「恋とは何か」というテーマについて書かされたことがあって、ちょうどいいのでこの作品を題材に考察してみましたというレポートを提出したところ、問答無用でC評価を食らいました。

 

 …解せぬ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今更ながらアニメ『Rewrite』を振り返る

Last Desire
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
なんで今更?というのは、単にふと思い出したからです。
私がかつてプレイしたのはPSPの移植の方だったので、「コタさんの奔走を今度は大画面で見たい!」と思いすぐさまPC版のRewriteを購入してきました(初期のやつ)。
 
いやー、フルボイスじゃない上に井上の立ち絵がないという難点があるにしても、相変わらずRewriteは面白い!
もうドハマりしちゃいました。
 
 
ただ、その傍らで良くない記憶がよみがえる。
今すぐスーパー篝ちゃんタンク砲でなかったことにしたいくらいの記憶が、いやがおうにもよみがえる。
 
…てなわけで、新年早々もやもやしちゃったので、その憂さ晴らしをここでしようかなとキーボードを取った次第。
 
 
 
少し前に2クールで放映されたアニメ「Rewrite」。
ただでさえKeyの中で異作なこの作品が、せっかくのアニメ化というチャンスを棒に振ってしまった理由、その失敗点を、今日は考察していきます。
 
 
 
 
 
*原作、アニメ本編の重度なネタバレを含みます。
 
*アニメ版「Rewrite」に対する批判てんこもりなので、アニメ良かった!とお思いになっている方は閲覧されないことをおすすめします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
長くなるので目次をば。
 
・はじめに
・完成度はどうか
・原作を否定した改変
 …作品の雰囲気
 …アニオリ展開
 …天王寺瑚太朗のキャラクター性
 …エンディング
・まとめ
 
こんな順序で話していきます。
 
 
Rewrite 初回限定版
 
 
 
 
・はじめに
 
 諸注意みたいなものだが、当然ながらアニメより前に原作としてのPCゲームが発売されている以上、「Rewrite」という作品の大本はそちらにあるので、逐一原作と比較した指摘をしていくことを注意されたし。
アニメはアニメだろ、という考えは私にも少なからずありますが、それはノベルゲームではできない演出をアニメがした場合に限った話であって、設定や話の筋、「Rewrite」を構成する根本的な要素を改変することを、アニメはアニメだと言って開き直ることはできません。これは二次創作じゃなく、あくまで”アニメ化”なのだから。
これらを前提に記事を書いていくので、受け入れられない人はブラウザバック推薦。
 
 
 
 
・完成度はどうか
 
 アニオリを採用してなんとか原作では5つもあった個別ルートをひとつにまとめて終えた1クール目、そしてMOON&TERRAに集中した2クール目と、あの超長編だった原作をわずか24話に詰め込んだのは、賞賛の意を込めて「よくやった!」と言うべきか。
 
無論、そんなことあるはずもない。一言いうなら「愚行」。
 
まず、舞台もヒロインも異なる5つの個別ルートを6,7話足らずでひとつにまとめるのはあまりにも無理がある。
1話目から魔物を登場させるのは雰囲気作りとして最悪な手法だし、後半はミドウたちを導入してなんとかそれっぽく見せたが、それらのせいであらゆる点において設定の改変が起こり、展開の説得力が全体的に欠如してしまう結果となってしまった。
 
動きのあるアニメでしかできない演出と言えば、バトルシーンに迫力を持たせられるということがまずひとつ挙げられる。それを重視してか後半はバトルシーンがやけに多かったが、いかんせん作画や演出に凝った様子はなく、ただ戦ってるなーと思うだけの絵になってしまうことがほとんど。
「あ、Rewriteはバトルものなんだな」と解釈してしまった人が多いんじゃないだろうか。
間違ってはないが、それが主な作品ではない。
 
また、これらは後に詳しく述べるが、最大の失敗は篝をメインに持たせたこと。
このおかげでMOON世界になぜ瑚太朗がいるかを説明できなくなってしまった。
 
さらにTERRA編では見栄えを良くしようとしたのか、原作と瑚太朗の性格がまるっきり変わってしまったり、地球規模の「良い記憶」とは何なのかに説得力を持たせる展開を放映しなかったりで、結局”ただコタさんがカッコイイだけ”というアニメになってしまった。
 
 
 
つまり、「Rewrite」としての完成度は最低。
 
反対に、「主人公がカッコイイアニメ」としての完成度は良い方。
というか、始めからそれだけを狙って製作したのではないかと思えてくる。本編の雰囲気は原作で味わってね!アニメは宣伝にすぎないよ!みたいな。……いや、それってどうなの?
 
 
 
 
以下に書き連ねていく批判点は、だいたい上記にまとめた感じになる。
ここからはそれらを1個ずつ紐解いていきます。
 
 
 
 
 
・原作を否定した改変
 
  上記でもちょこっと話したが、私が何よりアニメ版に不満を覚えているのは、アニメの展開が原作の持つ雰囲気を否定したからである。
 
原作の雰囲気とは何か。
 
同じKEY作品で言えばCLANNADとかがいい例なので、話すことにしよう(リトバスは未視聴)。
 
CLANNAD メモリアルエディション 全年齢対象版

 

 
アニメ版のCLANNADは原作ではAfterStoryこそ丁寧に描かれたが、その前の10以上も存在した個別ルートをほとんど割愛したあげく、主人公とヒロインとの間に渚を無理やり介入させたことで必然的にアニメオリジナル展開にならざるを得なかった。
 
だけどどうだろう。アニメのCLANNADは、雰囲気づくりに失敗していただろうか。
 
もし失敗していたらここまで知名度の高い作品にはならなかっただろう。
朋也がひとりの不良から女の子を愛するひとりの青年へ、そしてひとりの父親になるまでの過程。その間の様々な人との出会いや別れ、親友との喧嘩や親との和解など、人間らしい情緒あふれる展開が丁寧に描かれていた。
 
しかしこういった原作にもあるシーンをただ淡々と垂れ流すだけでは”作品の雰囲気”というのは作れない。
 
雰囲気というのは、ストーリーの流れ、絵やBGM等の演出効果が合わさって生まれるものなのだ。
 
都合がいいからという理由で適当に話を改変し、それっぽい絵のタッチやBGMを加えただけでは当然ながら原作とはまた違った雰囲気が生まれてしまう。
CLANNADは作画自体も本家いたる絵に寄せるほどに原作に忠実で、また例えオリジナル展開を用意しても全体的な話の本筋から反れることなく、アニメ独自の不思議さを醸し出しながらも原作同様の雰囲気を作り出すことに成功していただろう。
 
アニオリ展開を用意して、たとえ話が原作と少し反れたって、目指すゴールと目指す雰囲気づくりさえ合致していれば、”アニメ化”は成功するのだ。
 
 
 
Rewriteにそんな要素はあっただろうか?
 
話を24話にまとめきるのに努力値を振り切った分、肝心の雰囲気づくりが等閑視されてしまったように私は見える。
 
 
細かく挙げると枚挙にいとまがないので、もっとも酷かったと思えるひとつを書きます。
 
アニメ第一話。一時間という大盤振る舞いをしてズッコケた最悪な回だった。
コタさんが朱音と遭遇しオカ研に入るまでの話であったが、実は原作でもそこに至るまでには結構長かったりする。朱音と出逢うのはさておいても、そのオカ研に最後のルチアが加入するのは共通ルートの半ばに差し掛かった頃だ。
 
それは、コタさんのいる世界観、ならびにヨッシーノたちフレンズとたわむれる面白おかしい、だけどどこか物足りない日々が描かれる尺を必要としたからだ。
決して、魔物や超人のいる生き馬の目を抜くような世界を説明する尺ではない。
 
はじめに何も知らないコタさんが、実は秘密組織関係だったヒロインたちとわちゃわちゃやりながら日々を過ごし、徐々に世界がおかしなものであることをオカ研を通して知っていく……という流れで共通ルートが進んでいくのが原作だった。
 
超常現象的なことはほんとに少しずつしか出てこない。篝なんて分岐の直前まで顔グラすら出てこない。
 
実はオカ研メンバーが揃う前から無限に続く路地や回廊(圧縮空間)にたびたび巻き込まれてはいるが、それが何なのかほとんど説明されないまま事は去り、コタさんもほとんど気にしないので、プレイヤーは「なんだこの世界観は?ちょっと危ない秘密があるのかな?」程度にしか思わない。
しかし忘れた頃にまた唐突に現れたり、バカでかい黒犬のCGがいきなり出てきたり、コタさんが実は超能力持ちなのを知っていくことで、この世界はどこかおかしいことに徐々に気づいていくのだ
 
この”徐々に気づいていく”というのが共通ルートでの雰囲気であり、「これからオカ研どうなるの?」といったドキドキ感が原作の持ち味だった。
 
 
それをアニメは一話目から見事にぶっ潰したわけですね。
 
 
いきなりクリボイログといったボス級の魔物が出てきたせいで、この後出てくる黒犬の不気味さが全然感じられなくなったし、
一話目からこんなやばいのがいる世界なんだってわかっちゃうと、この後の日常風景が蛇足にしか見えなくなる。
コタさんが実は超人であることもこの怒涛の展開の中では見事に霞んでしまい、
また、篝を主役に持っていこうとして一話目から大抜擢したせいで『鍵』という存在の不思議感も一切なくなってしまった。
 
もうこの時点で私にとっては失敗なわけです。
 
これではただ「意味わからない世界」を表現しただけで、原作にあった「壮大な秘密のある世界」を一切表現できていない。
 
原作ゲームソフトのパッケージに書かれたストーリー紹介、ガン無視なんだよね。
気の合う仲間と過ごす楽しい時間、平穏な日常
だが彼らはまだ知らない
それが思いもよらない
真実へとつながっていることに…
一話目から真実入っちゃったもんね。
 
 
魔物や超人、鍵の”不思議さ”が欠如すれば、それはもうただの厨二全開のバトルものにしか成り得ないんだよ。でもコタさんはそういうストーリーの主人公になれるほどの勇者の器を持った人じゃないでしょう?
 
 
TERRA編は少しはマシになったかと思ったらまあそんなこともなく。これは後に詳しく語ります。
 
 
 

 

End of the World

End of the World

 
(OPの出来には感動しました。あれはまさにアニメにしかできない演出だと思います) 
 
 
 
 
 
この流れでアニオリ展開の話にいきましょう。
 
原作では(ルチアルートを除いて)井上捜索の日に葉竜という魔物が姿を表したことをきっかけに、オカ研内できっぱりと亀裂が入ってしまう。
そこからドルイドの小鳥をはじめ狩猟者と魔物使いは本業の生活に戻ってしまい、コタさんはまたひとりぼっちになってしまう。個別ルートではそのヒロインのいずれかにつくことでガイア、ガーディアンといった組織の実態を徐々に知り、鍵の起こす再進化を止める動きに出ていくのだ。
 
つまり、当たり前な話だがヒロインは5人であって篝じゃない。
 
アニメはその間でも取ろうとして篝を選んだのだろう。一見妥当な選択に思えるが、私からしたらその時点でもう失敗している。
この枝世界でコタさんが「篝を守る!」と言った時点でMOON世界の説明ができなくなってしまったのだ。
 
そもそもMOON世界というのは、無数の枝世界がアウロラの次元レベルの光によって投影されてできた「可能性を集約した世界」である。
つまり、無数の枝世界において、もっとも頻度の高い事象がこのMOON世界に事象として現れるのだ。
町が崩壊しているのもその理由。どの世界でも滅びを回避できませんでしたから。
その中でコタさんがいるのは、もともとは篝に仇を成す存在だったから。リライト能力は実際ほとんど無関係である。
どの個別ルートでも篝と瑚太朗の仲は険悪だったし、というかまともにしゃべったこともない。あったとしても「一発殴っておけばよかった」って言ってるくらい篝のことを敵対視している(ちはやルート)。
それ以前にコタさんは7年近い空白の前にガーディアンのひとりとして、鍵である篝を捕まえようとした過去がある。これはどの世界でも回避できなかった事象で、それゆえにMOON世界で瑚太朗は篝の敵対者としての事象として発現されているのだ。
 
この設定がアニメのどこで見受けられる?むしろ反例しかないじゃないか。
 
このMOON世界ではじめてコタさんが「篝を守りたい」と思うことで、MOON世界での”一個人としての瑚太朗”が生まれ、残機1状態での防衛線が盛り上がるわけだ。
前座がたった1クールしかない中でその感動を表現するのはあまりにも難しいことだけど、だからって設定ひっくり返しちゃあかんでしょ。
 
 
 
 
細かいことは置いといてもうひとつだけ突っ込んでおくと、瑚太朗の修業が子供レベルすぎ。
小鳥ガーデンの側でオーロラ剣出しながら素振りしているシーンがありましたよね。
原作でまともに戦闘修行している場面なんてTERRAを除けばちはやルートでしか見られないけど、そこでもあんな子供じみた修業はしない。
 
咲夜が「楽しいから」と言ってトランプのスピードをやったり、ウンパッパ佐藤さんとザンブラコ鈴木さんを呼んでバンブーダンスをやったり、そんなもんだった。
瑚太朗が「真剣な修行がしたい」と言っても、咲夜は常にそれを拒否。
理由は「命をかけることに慣れるべきではない」からだ。
加えてリライト能力による強化も原則禁止、またオーロラの発動も基本禁止を徹底していた。
 
それだけの制約をかした中で、瑚太朗は修行させられていたのだ。
アニメ映えしなさそうな特訓ばかりなので迷いどころではあるが、少なくともむやみやたらにオーロラ出して下手に素振りするよりかは全然理知的で理にかなった修行法であると思う。
下手な超能力バトルものになっちゃったのはそのせいでもあるよね。
 
 
 
 
1クール目のラストについて最後に触れるが、あれはシナリオ構成上上手くできている……と言いたいがやはり「待った」をかけたい。
 
崩壊が起こる→コタさん頑張る→篝の0281触る→崩壊止めたいなら私を刺殺して→いや無理だごめん→崩壊END……となったのがアニオリの締め。
 
これ、TERRA編の終わりと非常に似通っており、後に放送するだろうTERRA編を考えた上でわざと寄せた展開を作ったのだと見受けられる。
確かに下手に個別ルート5人のうちの誰かの終わり方をするよりは、ずっと後々の展開に繋がる終わり方だったようにも思えるが…
 
…あれ、もし刺殺していたら地球は救われたの?って思ってしまわないか?
 
答えはノー。救われない。ちはや編同様に、滅びが先延ばしになるだけであろう。
ただ、あの終わり方だと、下手に篝と多く絡んでしまったせいでもし刺殺していればTERRA編みたく救われてもおかしくないとも思えてしまう。
そしたら、なぜMOON世界で篝ちゃんが悩んでいるのかもわからなくなってしまう。
 
うーん、ここは難しいところではあるが、アニオリの中では一番マシな部分なんじゃないかなと思える。
 
 
 
 
 

 

Rewriteパーフェクトビジュアルブック

Rewriteパーフェクトビジュアルブック

 

 

Rewriteのすべてがここにっ!)

 
 
 
 
 
 
今日は随分書くなぁ。ちなみにここまでで6000字ほど。
別に最近アニメを見直したとか、そんなことはしてない。記憶にあるものを掘り起こしてだらだら書いてるだけ。
…ムカつくことほどよく覚えているものなんですよ、ぷんぷん。
 
 
次に天王寺瑚太朗のキャラクター性に入ろうか。
これは主にTERRA編での話になる。
 
原作をやった人に問いたいが、共通→個別→MOON&TERRAと見てきて、瑚太朗は強い人間だと思っただろうか?
 
ここで”強い”と言ったのは、現実を受け入れる力の事。二分化した組織の対立を仕方なしとして、己の運命を仕方なしとして、人を殺すことを仕方なしとして、生きていく力があったか、ということだ。
瑚太朗にそんな気概はあっただろうか?
 
ない。あるはずない。そんな冷酷無情の強戦士風な性格、TERRAでも見せたことがない。
 
個別ではオカ研の復活ばかりを望んで、TERRAではただ篝に振り向いてもらいたいがために終始泣きながら戦い続けていた。
 
弱い人間なんだよ。本場の戦場を体験しても、人を殺すことにはいつまでたっても慣れてなかった。肝心な時に冷酷になれずにいた。
 
だから最後の最後に泣き叫んだんだろう。
「何人、こうやって殺してきたと…!」
って言いながら。篝を刺して。
 
 
 
アニメで同じセリフ言ってたっけ?言ってたとしたら説得力は皆無だ。
アニメのコタさんはまるで性格が違う。先ほども言った「主人公がカッコイイだけのアニメ」みたいに、目的のためなら手段も選ばない冷酷ハンターになりかけている。
 
それが見える一番のシーンは恩師、江坂との決戦のときだ。
 
原作で初プレイしたとき、当時はまだ世界観も何もかもわからぬままTERRAに入ったが、あのシーンだけは強烈に心に刻まれた。それだけに、アニメのあの流れ作業的な回収は理解できない。
 
 
一言で言おう。アニメの瑚太朗は恩師を殺しても泣かないどころかびっくりするくらい冷静だった。
 
原作のあのシーンでは満身創痍のまま江坂との戦いに入り、お互い拮抗の勝負を見せるが惜しくも敗れかけてしまい、最後の最後で諦めかけたときに血の罠が発動!って感じで形成逆転するわけだ。
まあそこはいい。問題はその後。
 
もう一度言う。瑚太朗は戦う前から満身創痍だった。
実力はほぼ拮抗で、一時は負けかけた=殺されかけた。
そして、戦地に赴く前、瑚太朗は江坂のことを「一番戦いたくない相手」と言っていた。
 
これだけの過酷な条件下で、どうして憔悴していく江坂を冷静な目で見ていられる?
瑚太朗、疲れた様子も全然なく立ち膝で江坂に別れを告げてたけど、なんでそこまで余裕ある?
 
ここが私の中で二番目に不評だった点。ひどすぎる。
 
 
死にゆく江坂との別れ際で、最後に瑚太朗が発するセリフ、わざわざ見なくても覚えている(一字一句正確にとはいかないが)。
 
 
「あなたからもらったたくさんのこと……俺、忘れません」
 
「ありがとうございました…!!」
 
 
原作での瑚太朗のボイスを聞いてみてほしい(遠回しな催促)。
もうこれ以上ないってくらい泣きじゃくって、疲れ果てた声でこのセリフを言ってるから。
 
アニメでもほぼ同じセリフで別れを告げてましたが、もう全然言い方が違う。
そもそも余裕綽々で立ち膝ついてるくらいだから、そりゃ余裕な調子で言いますよね。
状況的には正しいよ。だけどおかしいよね。そうやって余裕になるだけの強さが瑚太朗にはあったっけ?と言いたい。
 
 
これが大きな要因として、アニメ版での瑚太朗はただのカッコイイキャラになってしまったわけだ。
 
他にも大西(瑚太朗の同期で『目』を持っていた奴)を殺すときも冷酷極まりなかったし。もうアニメのコタさんは別物なんですね。
よくそんな性格で篝に良い記憶を見せられたなと。ほとほと感心しますよ。
 
 
 
 
 
 
 
 
良い記憶と言えば、最後の話になるがエンディングについてだ。
 
アニメ最終話ですね。上手くまとめた風にしているのが余計に腹が立った終わり方だったなぁ。
 
本題に入る前に、この「Rewrite」の作品が一番に言いたかったこと、すなわち作品のメッセージ性はどこにあるとお思いだろうか?
 
これは個々人によって解釈の分かれる部分でもある。私も色々な意見を聞いていきたいところだが、私は普遍的な解釈で、篝の言う「良い記憶」にそれは集約されているのだと思う。
というか、きっと多くの人が同意見なんじゃないだろうか。
しかし、原作の作中ではその「良い記憶」が具体的に何なのかは一切語られないまま終わる
地球環境問題に関心のない篝の姿からや、ED「CANOE」の歌詞の中でそれらしいものを見て、もしかしたらこうなんじゃないか?と読者に投げかけた形で物語は幕を閉じる。
 
これはひとつの物語論として立派な演出で、重要なものほどあえて言葉にせず読者に投げかけ感動を誘うというものなのだ。
私はそういうRewriteの終わり方がとっても好きだった。
終わった後に自分の中で色々考えて、もしかしたら良い記憶とはこういうことだったんじゃないかと氷解したときに、はじめてTERRAでの瑚太朗の奔走が感動的に光るのだ。
 
それがRewriteっていうエモーショナルな物語だったでしょうよ。
 
 
なんで答え言っちゃうの、アニメ版篝ちゃんよ。
 
 
作品の中で答えを言っちゃったら、あえて言葉を濁した原作の雰囲気がおじゃんになるじゃんか。
それに、答えを言っちゃうことでそれ以外の解釈を公式に否定してしまうことにもなるじゃんか。なにしてんの。
 
なんだっけ、アニメで言った篝ちゃんの答え。
「我が星を食いつぶしてでも生きたいと願う意志…」とかそんな感じだったよね。うん。CANOEの歌詞まんまだよ。というか、私が解釈していた通りだったよ。でも全然嬉しくないよ。
はぁ…ここでまたRewriteの良さをつぶしたなこのアニメ、と当時は思ったものだ。
 
 
 
それだけじゃない。一番文句を言いたいのはこっから。
百歩…いや一兆歩譲ってあえて「良い記憶」を言葉にするのを良しとしよう。
 
だとしたら、瑚太朗がその「良い記憶」に適した行動をとっているシーンをもっと描くべきだったんじゃないか?
 
一番に瑚太朗が滅びゆく世界の中で「生きたい」と叫んだシーンはどこだ。
 
私は、地下都市に連れていかれた朱音を助けるシーンだと思ってる。
 
というか、多分私の中で一位二位を争うくらいに好きなシーンだった。
 
TERRA編の終盤。滅びの詩で自らも朽ち果てようとしたガイアの残党たちは、地下のシェルターのような役割を果たしていた都市に幼子の朱音を連れて逃げていった。
「この子は我々の希望なんだ!」
「聖女なのよ!」
とか言って。勝手だよね。
その空間はもはや地上で生きることを放棄して、楽に死にたいと願っているゾンビのような人間たちが逃げ込む場所だったのだ。
対する朱音はまだ生きたいという願いがあった。しかし聖女故の成長の遅さで言葉でそれを言えず、無理やり連れ込まれてしまったのだ。
瑚太朗はそれを知って、「そんな時間はないんだよ!」と泣き叫びながらも朱音を救出しにいくんだ。
ここのアニメのシーンは良かった。原作では見れない化け物と化した瑚太朗の姿が見れて、より一層の緊迫感があった。
そして瑚太朗は飛び降りる。
 
「うおおおおおおおおおおお!」
 
 
 
朱音、救出!
 
 
(゜_゜)??
(゜Δ゜)???
 
あれ…救出シーンは???
 
 
見事なカットだった。
リアルに開いた口が塞がらなかった。
叫んだその次のシーンでは、朱音ピンピン。
 
 
…皮肉はこの辺にしておいて、本題に戻ろう。
原作での朱音救出シーンでは、瑚太朗はゾンビたちに阻止されながらも泣き叫ぶ勢いで生きることを願う。
朱音は声にならない慟哭を挙げ、瑚太朗自身もまるでおかしくなったかのように狂いまくって出口へ向かう。
生きたいんだ。
崩壊した世界でも、わずかな希望しかないとしても、
可能性が残された地上で生きたいんだ。
 
 
 
 
 
「行かせてくれ……俺は……俺たちは…」
 
「まだ生きることを諦めちゃいないんだ!!!」
 
 
 
 
 
 
このシーンがあるだけでも、「良い記憶」の説得力は生まれると思うのです。
 
だって、コタさんがここまで生きたいと泣き叫んだのは、多分ここだけだから。
 
だからこそ、朱音救出シーン全カットは、私としては受け入れられなかった。
そんなお話。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
・まとめ
 本当は上記以外にも細かな気になった点をいくつか列挙したかったんだけど、もうこの辺で。
まとめは簡単。
アニメ版のRewriteは、原作で描かれてきた「壮大な世界観とその雰囲気。寂寥感溢れる終わり方と、天王寺瑚太朗という弱い人間の叫び」が著しく欠如し、ただ「瑚太朗がかっこよく暴れ回るだけの作品」になってしまいましたとさ、ということです。
 
 
一年以上溜めた怒りをこうしてぶちまけられて満足です(自己中の極意)
 
 
 
 
 
 了。
 
原作のRewriteは本当に面白いので、アニメのBD買うよりずっと安価でおススメですよ。
 
 

ファンディスクも同封されたスペシャル版↓

Rewrite+ 通常版

Rewrite+ 通常版

 

 

SoundTrack↓「Exploration2 symphoninc Version」は屈指の神BGM

Rewrite Original SoundTrack

Rewrite Original SoundTrack

 

 

 

エロゲの演出効果『○○フロー』のお話 up,down,side…それらの効果とは?

 

TwitterみたいにGIFが貼れれば説得力が増すんですけどね。そうはいかないか、さすがに。 

 

エロゲを始めとした数多くの映像媒体には、数々の動的演出効果というものがあります。

それは時に、観客に慢性を阻止する刺激のためであったり、物語的な伏線を秘めた効果だったりと用途は様々。

一見地味に思えるわずかな動きでも、それがあるのとないのとじゃ大違い…ってことも珍しくない。それだけ、視覚的な演出効果って効力のあるものなんだと、最近痛感しております。

 

そんな中、今日は特にエロゲなんかでよくみられる”○○フロー”の意図とその心理的効力について、考察していきたい。

 

文字、映像と、ふたつの視覚効果を得るエロゲにとって、動的演出効果はもはや作品の命と言えるもの。

中でも頻繁に使われるフロー演出とは、いったいどのようなものなのか、具体的にどういった効果を期待できるのか。色々考えてみたので書いていきたいと思いまする。するする。

 

 

 

 

 

初歩的な話。まずフローとは?という疑問について。

 

まぁ、大学生やサラリーマンなんかはPowerPointでよく目にしているものなんじゃないですか。私は使わないけど(フェード派)。 

フロー……flowとは、”流れ”を意味する単語で、文字通り一方向に流れていく演出効果のことを指す。

PowerPointでよく見られるのはアップフロー、ダウンフローだろうか。

アップフローは下から上へ、うなぎ登りのように上がっていく演出。

ダウンフローはその逆。上から下へどんどん下りていく演出のことだ。

 

だけどことエロゲにおいてはその二つはあまり見られない。

多く目にするのは上下ではなく、左右ではないだろうか。

 

 

 

 

さて、本題となる疑問はそこだ。

 

なぜ画面を左右に動かすのか?

 

 

 

 

 

…そうした方が視覚的に飽きないから…というのはまあそうなんだけど、こと映像界では”左右”というのには何かしら意味があったりする。

 

 

 

たとえばこれ。

Heartsの『恋するココロと魔法のコトバ』の冒頭部分。

 

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ちょっとわかりにくいが、これははじめに背景CGの全体像(一枚目)が出て、ある程度テキストが進んだら少し画面をアップして左方向にフローしている(二枚目)。

変化のタイミングは画像にあるように、主人公の適当な述懐からこの街の説明に入るときである。

 

 

だいたいフロー演出の際はこうやって画面アップを入れてからやる場合がほとんどだが、まあ正直このアップには大して深い意味はないと思われる。

視覚的なリセット、あるいは注目させたい対象に焦点を絞らせているだけであろう。

 

それよりも、なぜ左に流れるのか?というところ。

 

街の説明に入るとき、画面が左に流れることで、我々は何を感じ取れるだろうか?

抽象的過ぎて表現が難しいが、できる限り書き連ねてみよう。

 

・情緒的なうら悲しさ

・主人公目線で『ああ、こういう町並みだったなぁ』と懐かしむ感覚

・なんだかすっきりしないもどかしさ

 

…うん、まあこんなものでいいかな。総括すると、後ろ髪を引かれているような、過去になにかを置き忘れているような感覚に陥ってしまう(私は)

シーンにもよるけどね。

 

 

 

 

 

対して、右方向へ向かうフローはどうだろか。

もし同じ場面のフロー方向を変えた場合、どのような感覚を与えられるかを想像してみる。

 

・これから何かがはじまるんだという高揚感

・主人公のウキウキ感や希望

・晴れ晴れしい気持ち

 

…ちょっと無理がある?けど、私はこんな感じ。

全体的に、前向きな印象を与えられる気がするのだ。

 

 

これは個人によって詳細な受け取り方は変われど、どっちにしてもフローによって感受的ななにかを与えられることは間違いない。

画面が左右に揺れ動くことによって、主人公の気持ちに一歩くらい近づけたような気になれる。

 

 

というのも、これは映像界隈で昔から言われているあるひとつのルールに従うと思われる。

映像界において、右方向は未来志向を示し、左方向は過去志向を示す。それは、私達が普段目にする時間軸の方向に沿っているからだ。

というもの。

無意識的に私たちは時間軸を左から右へと定式化しているので、どちらにモノが流れるかで受け取る感受が変わってしまうのだ。

 

具体的な例としては人物が向いている方向をそのルールで決めていることがほとんどか。

アニメ版の『グリザイアの楽園』のED、『ぼくらの』のOPの、ちょうどサビの部分でそれが見受けられる。主人公たる彼らが夕陽の中を左方向に向かって走っているが、このルールに沿えば、彼らは過去に向かって進んでいる――すなわち過去にしこりを残していることの演出になる。

 

…言われてみればそんな気がしないか?

え、そうでもない?

 

 

同じように、前述した左右のフローにも同様な演出効果が含まれていると見受けられる。

左に流れるフローは過去への回想を表し、後ろ向きな表現に使われる。

右に流れるフローは未来への希望を表し、前向きな表現に使われる。

 

こうして定義してみると、より物語に厚みを持たせられるのではなかろうか。

 

もちろんシーンにもよるし、CGに描かれている物の俯瞰角度なんかによって使い分けているというケースもあるだろう。

しかし、動的な演出効果をちょびっと加えることで、読み手に与えられる感受的情報量が増えるというのは、このようなノベルゲーム媒体の特権であるようにも思えるのだ。

 

 

 

 

さて、左右は良いが、それでは上下はどうだろう。

 

私自身、上下のフローはほとんど見たことがないが、それもそのはずで、横に長いPCの画面で、縦に長いCGが使われることは少ないからだ。

横長のCGにも上下フローが使われることはなくもないだろうが、左右に比べれば俄然に優先度は低い。

 

単純な話、おそらく見にくいからだろう。

 

上下方向には左右と違って、時間的な流れがない。

抽象的な時間的流れがあることによってその映像には立体感が生まれ、与えられる感受が増えるわけだが、そのルールがない上下には、与えられる立体的な感受が少ないのであろう。

 

全くないわけでもない。理屈をこじらせれば、該当しそうなルールは多々ある。

たとえば、重力的な流れとかか。

”物が下に落ちる”という無意識的なルールを映像に組み込めば、左右同様、上へ流れるのは前向志向、下へ流れるのは後向志向、と見れなくもない。

 

あるいはもっと深く追求して、上へ流れるのは物理法則を歪めるくらいの前向きな志向、下へ流れるのは物理法則に抗わない自然に従った後向きな志向……と拡大的に解釈することもできる。

 

……言われてみるとそんな感じしないかな?

 

 

 

 

とまあ、こんな感じで、上下のフローにも左右同様、感受の情報を与えられる効果があるんだってことだ。

 

物語というのは、我々の生きる現実世界とは隔離された、まったく別の世界の話ではあるが、それを見る我々の目はやはり自分の経験則に基づいている。

人が泣いていれば、その人は悲しんでいるんだと。

眉毛が吊り上がっていれば、その人は怒っているんだと。

そんな些細な解釈も、我々の現実世界で得た知見を活かしているからこそのものだ。

 

同じように、上下左右に画面が揺れる演出にも、我々の現実世界での経験則に基づく感受があるはずなのだ。

左右には時間的な流れが、上下には物理法則的な流れが…というように。

 

そういった、我々の現実世界での些細な経験則を刺激して感受を与えてくるような技術こそ、映像媒体の”演出効果”というものだ。

 

 

それらを丁寧に活かしている作品というのは、やはり読み手に訴えかけてくる感情も大きいものになる。

ノベルゲームには、それを増長させる無限の可能性がある。

 

 

読み手に感受的な刺激を与えるフロー演出。

突き詰めてみれば、更なる可能性が出てきそうだ。

 

 

 

 

 

 

了。

 

 

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作品に対する読者の”責任” あなたのその目は本当に正しいの?

 

 

”ストーリーが浅い”、”シナリオが悪い”、”ご都合主義”、”メッセージ性がない”……

 

 

私はこのような単調な批評がとにかく嫌いだ。

エロゲにおいては特に某批評空間で嫌というほど目にしてきたこのありきたりな批評文句に、最近ますます嫌悪感を孕んできている。

 

 

好きに言わせておけばいい…と思いたいが、そうもいかない。

 

 

 

…エロゲが低迷期に陥っている現代、その要因は他のコンテンツ(ソシャゲ等)の発展や、コンテンツの閲覧やプレイの”無料化”が促進していること、趣向の多様化など実に様々。

しかし一部では、エロゲに携わるスタッフの戦力が減っていると指摘する声もある。

それは頭数はもちろん、個々の戦力も鑑みて、だ。

 

わからなくはない。

昨今のエロゲはどれも一過性のブームにしかならず、全盛期のような”名作”とうたわれるものはもはや誕生し得ない。

 

それをメーカーの実力不足につなぎ合わせるのは実に簡潔な論理展開だ。

しかしどうだろうか。本当にエロゲの低迷化はスタッフの責任だけにあるのか?

 

 

前置きが長くなったが、私が言いたいのはたった一言、こういうことだ。

 

”読者にも責任がある”

 

冒頭の話に戻れば、あれがこの一言を説明する一例になる。

年々増えていくあの手の批評をする者たちは、得てして作品に対する見方がずれており、正しい判断を怠っているのだ

 

そういう者たちが傲岸にも市場を握っているから物語界の発展が見込めない…なんてのも理由のひとつとしてあるんじゃないか。

私はそういう視点で、嫌いだと称した。

 

 

 

 

 

・作品に対する見方とは?

 

あまり長々と書き連ねるのはやめて、さくっと本題に入ろう。

わかりやすい例として、現市場の最先端をいくKEYとゆずソフトの作品ふたつを考えてみてほしい。

 

まぁ、なんでもいいよ。私がプレイしたことのある作品で言うなら『Rewrite』と『サノバウィッチ』にでもしますかね。

 

…え?『Rewrite』はKEYじゃないって?うるせぇ。

 

 

 

Rewrite+ 通常版

Rewrite+ 通常版

 

 

 

 

とにかく、考えてほしいことは、その二作品をプレイする時の姿勢は同じか?ということ。

もっと言えば『サノバウィッチ』をプレイするのと同じ心持ちで『Rewrite』をプレイできるだろうか?

 

はっきり言う。無理だ。

 

Rewrite』にサノバウィッチのような萌を求めてもお門違いだし、

『サノバウィッチ』にRewriteのようなストーリー性を求めてるのもおかしな話でしょう。

同じ見方で見ようとすれば、必ずどちらかで弊害が出て、その作品をプレイする意欲をなくしてしまう。

 

このふたつの作品をプレイしたことのある人なら誰もがわかること。

このふたつは本質的に異なった物語性を持つ作品なのだ。

 

 

これは極端な例だが、作品には作品ごとに定まったテーマがあり、それを無視して作品をプレイしたって合わないのは当然の話なのだ。

 

萌は萌に特化するよう構成されており、シリアスはシリアスに特化するよう構成されている。

それを見誤った時点で、その人はその物語に感激を受けることは絶対になく、結果として不満だけが残るわけ。

 

だから私は、作品に対して批評不満を言う前に、その批評不満はその作品に対して正しい批評不満なのかどうか考えるべきだと思う。

 

それが読者、プレイヤーの本来あるべき姿で、まるで自分たちを『お客様は神様』みたく持ち上げるのはいささか傲岸が過ぎるのではないかと、思うのです。

 

 

 

 

・では、どうすればいいのか

 

では具体的に、作品にはどういう見方のジャンルがあり、それらに対して適切な見方とは何なのか…という議題についてだが、確かにそれは難しい話でして。

 

悩みに悩みながらも色々考えた結果、物語はボトムアップトップダウン見方の二つに、大きく分かれるのではないかという仮説を立てることから始めました。

まだ思い付きの範囲だけど、整理がてら書いていきたい。

 

 

 

 

まず、世間一般的に”良い物語”とされるものの条件とはどういうものなのか。

 

これには複雑に絡み合った様々な要因があると思うが、根っこの部分はどれも等しいと思ってて、それはその人に響いたかどうかだけにあるんじゃないかと。

 

ありきたりな話、たとえばあるヒロインが病気で近々死ぬことを宣告された物語を書くとしよう。

書くとすれば、方針は以下の大きくふたつに絞られる。

 

A:それまでの話の道筋の中では病気に焦点を当てず、最後のある一点から一気にその話を持ち込んでいく。

 

B:始めから余命を言い渡されたヒロインとの交流を描くことを意識し、徹頭徹尾病気に関連した展開を持っていき、徐々にラストへと向かっていく。

 

どちらが良いとかではない。このふたつの物語では、物語全体を病気の話で彩るか否かという論議の時点ですでに違えているため、比較のしようがないのだ。

同じ病気の話でも、方針が違えば見る視点も変えざるを得ない。

 

私はAの物語に合う見方を特にボトムアップ的視点とおくことにした。

クライマックスにはじめて病気の話を持っていくが、それ以前との間には離れた溝がある。

ある一点だけの、ある瞬間だけに感動を絞った展開を狙い、最後に作品全体を評価させる視点。その一点だけを強烈に残すことで、その作品のテーマを決める。

すなわち、テーマ<展開  を重要視する。

 

反対に、Bをトップダウン的視点とする。

はじめからクライマックスに向けて道筋が立っており、作者でなく物語自身が話を広げようとする力に溢れている。

クライマックスではそれまでの展開や設定がすべて繋がって、作品全体を俯瞰した後にその一点を評価させる視点。作品全体を通した展開が、その作品のテーマになる。

テーマ>展開  を重要視する。 

 

 

…わかるだろうか。言ってしまえば、主にシナリオ力のある作品とされるものはBに値する。

 

先に述べた『Rewrite』もそうだ。

あの話は、共通→個別→MOON→TERRAと、段階を踏んで丁寧に物語が編まれており、最後の瑚太朗の奔走もそのすべての総まとめになっている。

だからこそ、それまでの肯定をほとんど無視して最期だけに焦点を当てたって、そりゃ伝わるはずがない。全肯定を踏んでクライマックスに行くから味があるのだ。

 

トップダウン的視点でようやく『Rewrite』の本質が見えるため、反対にボトムアップ的視点では『Rewrite』は不快しか与えられない。

 

 

 

物語には、はじめに”理解”があって、次に”納得”がある。

人物の理解、世界観の理解、展開の理解。

人物の納得、世界観の納得、展開の納得……

どこかで見方を違えてしまえば、理解から納得までの道筋を見失ってしまう。

しかし見失ったことにすら気づけないでいると、最後には不満しか残らなくなる。

 

ストーリーがいいものをプレイしたい、それと一緒にえっちいものがいい。

笑えるものをやりたい、それと一緒に最後は泣けるものがいい。

ひとつの物語に自分の趣向にあった期待を寄せたいと思うのは無理もないが、そんな完璧な作品は数えるほどしかない。

自分に合わなかった要素を粗探しして、それを作品の不出来具合のせいにするにはいささか無理がある。

 

”納得”の出来ない作品は、なぜ納得ができないのかを一度でも考えてみると、物語に対する向き合い方が謙虚になると思います。

 

なんでも頭ごなしに批判するよりも、そういう謙虚なユーザーの考察、レビューの方が、私は見ていて気持ちいいですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とまぁ、今日の話は物語論のそれでしたが、しかし今でも私の中でもやもやしている部分があり、絶賛考察中であります。

物語が人に与える効果、人が物語に対する向き合い方…そういうのをもっともっとつきつめていって、最終的には自分の納得のいく”物語心理学”みたいなものを築いていきたいですね。

 

 

 

了。

 

 

今やってるエロゲ(数か月ぶり)↓

 

 

 

 

 

 

 

 

叫びたいのなら叫び続けるしかない 『はつゆきさくら』小坂井綾編考察①

 

 

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よし、のった(殴

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*ネタバレ注意

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プロローグ後、公式推薦順でいけば一番はじめに攻略することになるヒロイン(厳密にはもう一個段階を踏む。以後、それを桜BADルートと呼ぶことにする)。

そんな大役を与えられただけに彼女のルートはとても濃く、このルートで描かれていることは主人公を理解する上でもっとも重要な内容になると思う。

 

本編の一年前。どうして初雪は”復讐”をかかげ、ゴーストチャイルドになったのか。

 

そしてその時のヒロインとしてなぜ小坂井綾が選ばれたのか。

 

今回は、そのあたりを考察の軸として見ていきたい。

しかしまあ、小坂井綾の人間性はいまだに理解できない部分が多く、その正体も言動もこれが答えだと言える解がない。それくらい、色んなものが集まってできた渾然一体なミステリアスヒロイン。

ある意味でいちばん人間的なのかもしれないね。

 

 

でも、そのなかでひとつ、確かに言えることがある。

 

彼女は、初雪の叫びを肯定できる唯一のヒロインなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初雪が真意に抱えていた願い

 

 このルートのはじまりは、ランが討たれてホテルを追い出された初雪が放浪の身となる回想からはじまる。

突然の出来事に気持ちがついていかないながらも、その日その日を漫然と生きていくうちに、初雪は状況を整理し始め、次第に様々な疑問を抱いていく。

 

どうしてランが討たれたのか。

そもそも、どうして自分はあのホテルにいたのか。

どうして、自分はひとりぼっちなのか…

 

そこには、本編では描かれることのなかった、ゴーストチャイルドになっていない”人間”としての初雪が垣間見えるのだ。

まずはそこを見ていこう。

 

 

 

・ランが討たれてから

 

結局のところ、俺は寂しかった

家に帰れず、こんなところに住み着いてしまっている境遇が

そのことを、相談する相手もなく…そして、叱ってくれる相手もいないことが

…ランに会いたかった

 

はつゆきさくら 河野初雪

 

 

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ゴーストたちに追い払われて10か月。初雪は街をさまよい続け、ひとりぼっちで生きてきた。家に戻りたくても戻れない、ランにも会えない。

何故いきなりランが目の前から消えたのか、いきなり現れたゴーストたちはなんなのか、ゴーストの王様とはいったい…?

幻と疑うような出来事の連続に困惑し動けなくなるのは無理もない。しかし10か月ともなると、だいぶ長い間逡巡していることになる。ランも、安息の場も、もう完全に消えてしまったことは時間の流れがいやがおうにも教えている。

 

それなのに、彼は必死になって探そうともしない。

なによりすでに諦めてしまっている。

 

この頃はまだ王として目覚めておらず、復讐心もない、何が悪くてそうでないのかと考えるだけの弱い人間だ。裏を返せばこれが初雪の本性ということ。

桜BADルートのラストでも示唆していた通り、結局彼にはもとより復讐心なんてものはない。

ただ寂しくて、安息の場所が返ってきてほしいと願うばかりで、行動することも叫ぶことすらできないひよっこなのだ。

そんな弱い心が、初雪をより苦しめる。

 

ゴーストの王。それは、妙に俺の胸を打つ惹句だった。

この世界に受け入れられない理由を与えられたようで、少しだけ、救われるんだ。

俺はゴーストだから、受け入れられない。

 

はつゆきさくら 河野初雪

 

人はとかくして物事に理由を欲しがる。なにより理不尽は嫌いだから、とってつけたような理由を考えて、強引に自分を納得させようとする。仕方のないことだと思い込む。人間って、常に理不尽から抗っているように見えて、その抗い方に道理がなっていない、頭の悪い生き物。

本編で強く見せていた初雪も、素はただの弱っちい人間なんだよ。

 

けど、本当にそれだけか?

俺がこの世界に受け入れられないのは…

何かを呪っているからではないか。

人を呪わば穴二つという。

誰が誰を呪って、その連鎖は始まったのだろう。

悪いのは誰だ?

 

はつゆきさくら 河野初雪

 

この、誰かを呪うということに特化したのがいわばナイトメアだ。

彼女は理由よりも憎悪が強かったからすぐさま呪いに突っ走ったが、対して初雪はどうか。

彼はこうして道理を求めるばかりで一向に憎悪にも復讐にも走らない。もちろん、前を向くこともできない。

理由を求める心理としては、最終的に納得が欲しいのだろう。仕方がないことだ、と思いたいんだろう。それはゴーストになり切らない強さであるともいえるし、自虐を張り巡らせて自分を苦しめているだけの弱さであるとも言える。

でもどちらにしたって、彼はランや安息の場を失っても放浪するだけ。

しかし、逆に言えばひとつのきっかけさえあれば、どちらにも簡単に転べてしまうのだ。呪いを孕むゴーストにも、前を向く生者にも。

 

 

 

そう、この時のもはや初雪は生者でも死者でもない、互いの境界線上を反復横飛びしている、生けるゾンビのようなものなのだ。

 

ランを取り戻すためによくわからない憎悪に乗っかるか?

ランの言いつけを守って立派に生きるか?

 

その生死を分かつ最大の要因は、ランのいう”立派な人間”を目指せるかどうかにある。

では立派とは何なのか?

まだ確実な答えにはたどり着けないが、この時点でひとつわかることは、以下のセリフからある。

 

どちらが憎いとかじゃない

町が、歴史が、あらゆる呪いを憎む

大人たちは…その争いで

誰も子供を、巻き込んではいけない

 

はつゆきさくら 河野初雪

 

父親やゴーストの復讐心を煽る囁きが、本来彼にはなかった憎悪を生じさせる一方で、彼には彼なりの大事な信条があったのだ。

これが一番活きるのがシロクマ編なのでここでは割愛するが、ガキを巻き込んではいけないというその矜持こそ、初雪が放つ唯一の叫びなのだ。

自分が置かれている状況は、大人たちに良いように利用された末にあるからこそ、叫ぶ権利が彼にはある。そんな叫びが歯止めとなって、彼をゴーストの王にさせず生死の境界線をうろうろさせていたのだ。

 

 

そんな曖昧模糊な初雪の意志を大きく揺るがすふたりに、この後出会うことになる。

 

 

 

 

 

 ・アキラとの出会い

 

思えば初雪が放浪し始めてから初めてまともに触れ合った人ってアキラだ。

そしてそいつは、初雪に“復讐という逃げ道”を教えてくれる。

 

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アキラと初雪は似た境遇なだけあって気心知れた関係になっているのだろうけど、決して身を寄せ合っているわけではないんだよね。どちらも孤独。いうなれば、お互いのその孤独が少し擦れているだけに過ぎない。

生前のアキラも初雪と同じで、一番つらい時期に寄り添える肩がなく、それでも助けてくれなんて言えない、凍えるほどの孤独に苦しんでいた。今のアキラはゴーストとなり、ただ生きていたいという願いを復讐に任せることで仮初の安定を得ているから、こうして河野を心配(してるのかな?)できているのだろう。

 

淋しい…。このセリフは、自分にも向けられているようにも見える。

 

そう、こいつだって、焦がれるほど復讐心に溺れているわけではない。復讐の対称の顔すら曖昧なほどのものなのだ。

だから結局は、えらくあっさりした終わり方になる。

 

 

「あんまり、意味がなかったのかもしれないな」

「でもそういうもんだろ。復讐なんてのは」

 

はつゆきさくら アキラ

 

生死の境界線でさまよっていた初雪が見た、ひとりの男の復讐というのはなんともすっきりしないものだった。

こんなはずじゃなかったと。欲しかったのは、こんなものではなかったと。

結局、逃げるようにして走った復讐は、自分の身を焦がすだけの結果にしかつながらないのだろう。

 

良いことなんてありはしない。会いたい人に会えるわけでもない。ただ自分の身を焦がすだけ。それが復讐の果てにあるものだ。

 

初雪はそんな当たり前な真理を、アキラを介して知ることになる。しかし、ここから初雪が『そうですか、じゃあ復讐なんかやめて真っ当に生きます』なんて簡単にはいかない。

 

自分の身を焦がすことが復讐――という、いわばゴーストの本質に気づき始めてしまっていたのだ。

 

 

 

 

・覚醒の予兆

 

恐れと侮蔑の混じった目で自分を見るクラスメート達の顔が浮かぶ

なぜか付きまとっていた女の顔。今朝の男の顔が浮かぶ

あの剣道場も、これ以上、寝床には使えないか

 

はつゆきさくら 河野初雪

 

アキラと別れ、綾と妻とのひと悶着の後の波乱。

 

そもそも初雪が剣道場なんていう、学内にあって人目に付きやすい場所を寝床に使っていたのは、利便性があったからというだけではない。

学内だからこそ、誰かが見てくれるだろうと思ったまでだ。これが初雪自身が後述する、甘い考えだ。

そんな甘い考えをひそかに持てるほど、この時点ではまだ現実には絶望しきっていないことがうかがえる。

執拗に付きまとう綾、暴力を振るってきた妻、恨みや煩わしさをまとわずにその顔が浮かぶ。

方向性は違えど、なんだかんだで同じ学園の生徒で初めてコミュニケーションをとった二人なのだ。

 

しかし居場所が失われたのは事実。

あの日から日に日に肥大化していく虚無感は、ついにゴーストたちに頼ることでしか埋められないほど、限界に達していたのかもしれない。

ついぞカツアゲの行為にまで走るも、脳裏に浮かぶランの顔。初雪はそれを胸糞悪い光景と称し、綾からも逃げてしまう。

 

「ちくしょうめ。どいつもこいつもっ」

「全部殺してやる。殺してやる」

 

はつゆきさくら 河野初雪

 

ひとたび倫理から背いた行為に乗ってしまえば、そこからは憎悪だけしか生まれない。おそらくこれが、初雪がはじめて心から抱いた憎悪。ゴーストにそそのかされ、略奪を掲げた瞬間だ。

アキラを経て復讐はただ身を焦がすだけで意味はないと気づいていながらも、理屈を超えた価値を初雪は感じ始めようとしている。

 

 

…よく考えてみれば、虚無感で一杯の初雪を復讐の道へ走らせることなど簡単なのだ。現に今も、ゴーストの囁きで街に憎しみを抱こうとしている。

だとしたら、ランがわざわざ綾を使う意味などないのでは、と思ってしまう。

世話係は確かにほしい。でも下手に綾と深く交われば、復讐に不要な未練が生まれてしまう。

 

これはもしかしたら、ランなりの、一種の賭けなのかもしれない。

 

 

 

 

・綾との一騎打ち

 

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 本ルートの最重要人物たる綾との遭遇のきっかけも、またなんとも濁されているものだ。 

 作中でもほのめかされているように、もしかしたらこの時の綾はランをはじめとした多大なゴーストの干渉を受けてしまっているのかもしれない。

いわば ”(純粋な)生者ではない”。 目的意識もどこか曖昧で、自分がなぜこうしているのかもわからない、そんなある意味ゴーストに生かされているような存在だからこそ、 初雪と深く接触することができたのかもしれない。

ま、綾については次回辺りにでも。

 

 

 

 

「1つ聞きたい。何故俺に構う?」

「強いて言うなら…目障りだからかな」

 

はつゆきさくら 河野初雪、小坂井綾

 

何故構うのか。

初雪との交友のきっかけとなる部分だが、今でも納得のいく理由が見つかっていない。

自分なりに考えてみると、この「目障り」というセリフは初雪だけでなく、自分にも向けて言っているような気がする。

初雪を目障りだと言ったのは、初雪のその言動に嫌いな自分(この時点ではおそらく、死を肯定しながらのうのうと生きる不格好さ)と似た部分があったから。闇を見ると自分の闇も露呈されてしまうように、綾にとってこの初雪の存在は本当に目障りだったのだろう。そのうえで執拗に構うのは初雪がアキラと似ていたからか。

つまるところ結局は、綾自身の後悔やわだかまりを晴らすだけに話しかけたってところだろう…と私は解釈している。

 

 

 

「お前は一体、なんなんだ。俺に構うな」

 

「世の中にはいくらでも口開けて人の親切あてにしてる人間が腐るほど腐ってるだろうがよ!」

「君が、それでしょ」

 

「孤独なくせして孤独になり切れなくて、助けてほしいのに助けてくれって言えない」

「いっそ消えちゃえばいいのに。誰もいないところで寂しがってなよ。一人で寂しがってなよ」

「寂しいってそういうことでしょ。君は単に寂しくなるのが怖くてもがいているんでしょ」

「滑稽なんだよ。傍から見ると」

 

はつゆきさくら 河野初雪、小坂井綾

 

 

考察するまでもなく、現状態の初雪を表したセリフ。

ランを失ってから剣道場や色々なところを寝泊まりしていって、たまにのうのうと学園に現れては不機嫌そうに去る。こんな行動の背景には、やはりどこかで『誰かに見てもらいたい』という考えがあったからだ。

しかし変な意地があるのか、本当のことを話しても誰も信じてもらえないからか、自分はゴーストの王だから孤独でいいんだともったい付けた理由で孤独を選び続け、それでもゴーストの王にもなりきれない。

生者として人の親切にも頼れず、ゴーストにも染まれない。そんな胡乱な状態こそが、綾の言う”滑稽”という言葉に込められている。

 

…それは初雪自身も気付いていたはずだ。ただ、救済の手もなければそう罵ってくれる相手もいなかったから、閉じこもるしか選択肢はなかっただけで。

どこかでそんな弱い自分に気づいていながら、結局目を反らしたまま甘んじていた初雪に、はじめて投げかけられた正論だった。

 

 

前述したように自分で自分の像が把握できていない綾からしてみれば、アキラを想起させてしまうとは別に、初雪は無意識に感じ取った自分の鏡でもあった。

諦めきっている綾からすれば下手にもがく彼は余計に滑稽に映るのだろう。

 

 

俺は消えるべきだった

誰とも口をきかず、呪うような表情でクラスメートに煙たがられるくらいなら、さっさといなくなるべきだった

それでもこんな隅っこに止まり続けたのは……ランとの約束のためだけじゃない

甘ったれた、未練のせいだった

結局俺も、何もわかっていないじゃないか

そしてもう、そういうことにあがくことにも、疲れてしまった

 

はつゆきさくら 河野初雪

 

実は綾よりまだ救いがあるとわかるこの一節。

初雪は周りに敬遠の目を向けてでも、どこかで助けを求めていた。それは、まだ立派になりたい、再起したいと思う表れと、寂寥感の重ね合わせから生じた想い。彼も彼で必死だったのだ。

しかし初めて自分に向けられたのは、そんな自分の罵倒だった。それも的確だからこそ、彼は足掻くことをやめてしまう。

 

一方でこれは、これまでの停滞した自分へのリセットの機会。

ここでランとの約束も薄れ始め、本人のいう甘ったれた考えが昇華されることになる。

ここから先は初雪のセカイだ。ゴーストに転ぶか、まだランとの約束に固執するか、その選択が、このルートにおける初雪の役となる。

 

 

…というか、なぜ“甘ったれた未練”なのだろう?

どうしようもない重荷を背負って、誰かに助けてほしい、救いの手が欲しいというその気持ちを、彼はそう代弁した。

綾の言うように、それでもひとりでもがき続けている方が無様で滑稽であると言ってもいい。助けてほしいというのが、そこまで甘ったれなのか?

この時から既に、初雪はゴーストの王への兆候があったのだと言える。業の重さに叫びたいのなら、現世に留まらずゴーストになって叫ぶべきだったと。しかしこの時の初雪にはまだその覚悟が足りなかった。

だから綾の叱咤で今の愚かさを見つめ直した。なかば死んでいながら、心の底では生に焦がれている自分の覚悟の弱さを。

…甘ったれた、というのは覚悟の無さから生まれた自嘲の言葉だったのだろうか。

 

 

 

 

・小坂井綾の悩み

 

憑依で済ませていいのかわからないくらいに、この子には芯がなく、確固とした生き方がない。それでももともとは頼れる生徒会長、あまたの男を恋に落とした魅惑の女性。

アキラの死がここまでの虚無を生んだとなれば、実は初雪のことをどうこう言える立場ではない。いや、本質的に同じだからこそ、初雪を見ると自分の惨めさも浮き彫りになって、結果「目障り」なんて言葉が出てきたのだろう。

 

「私は卒業、しない方が良いんじゃないかって思ってる」

「卒業が迫るにしたがって、ぼんやりと考えるようになったんだ。このまま卒業してもいいのかなって」

「罪滅ぼしとかじゃなくて。彼をどこかに置き去りしてしまうような気がしてね」

 

はつゆきさくら 小坂井綾

 

 

不祥事を起こして退学を食らったアキラに対してはドライだったという過去話。

元々の綾って、思う以上にサバサバしてる人だったんだろう。慕われていたというのも、こういった凛々しい態度が評価されてのことかもしれない。

実の弟に対して心配もしていなかったと言うが……いや、兄弟仲がそれほど良くなければこんなものだろうか。

でも死んだとなれば別。死者はもう口を利かないから、残された側はその死をきっかけに妄想だけが膨らんで、憑りつかれたように立ち止まってしまう。彼を気にしていなかった分だけ、尚更。

いや、気にしてなかったはずがない。曲がりなりにも実の弟で、後の綾のセリフから、不祥事を起こした後にも町で会っていて、その時何もしてやれなかったという後悔も生まれているのだ。

彼が生きていたうちは、さほど自分の私生活に影響を及ぼすまでではなかったにしても、どこかしら心残りというものはあったはずだ。

 

だからこうして、立ち止まるくらいに憑りつかれている。

 

 

「まあ実際。そんなことは卒業しないとわからないんだろうけどな」

「結局、今過ごしている時間がどんな時間かなんて、その時はわからない」

「過ぎ去って振り返った時こそ、見えてくるものがあるんじゃないか」

「だから、とにかくやり切ってみるしかないんだと思うけどな」

「自分と、懐かしい人たちに報いるために」

 

はつゆきさくら 河野初雪

 

周回プレイでびっくりしたのがここ。これはランの受け売りの言葉だが、まさか初雪の口から出ていたシーンがあったことに驚きだった。

逆に言えば、こうして人に話すくらいに心に染みわたっている警句からこそ、彼は未だに生死の淵から踏み外さずに済んでいるとも言える。

 

このセリフは物語の核心をつく重要なセリフのようで、共通部においてこの一連のセリフを綾の方からも発している。

ランから受け持った初雪が発端のこのセリフ、覚醒前の初雪自身は区切りを超えたことがないからまだ響かないものの、卒業生の綾はこの作品においては唯一の区切りを越えた経験者だ。卒業後の綾本人は、ランの教えに倣って生きる覚醒前の初雪をそのまま表しているように思える。ふらふらと復讐心に身を投げてしまうのも、再起の可能性があるのもすべてひっくるめて。

 

しかし、綾もまた孤独な人だったんだと今更ながらに思う。

家族からは見放され、弟もいなくなり、先生方からは覚えが悪く、後輩達にも特別思いを馳せていない。孤独だからこそ、止まってしまうんだろう。

ひとりだと、頑張ってもその後に価値が見いだせないから。彼女は感情を表に出さない分わかりにくいけれど、なんだかんだでそれはアキラや初雪と同じこと。

だ、彼女は自己犠牲の精神がいささか強い。初雪はよく、放浪していた自分の境遇を、心の隅で自分がゴーストだからと理由つけて無理やり納得しようとしていた。綾は更にその先の、なら自分はどうなってもいいやという所まで来ている。初雪のようにどこかで助けを欲してなどいない。いや、助けを乞えないから諦めている。第一に彼女の側には誰もいないから。

それは逆に潔いと言えるのかもしれない。むしろ愚直にも助けを希う初雪たちの方が、綾の言うように惨めなのかもしれない。

だけど。だけどね。それはどこまでも独りよがりな精神だと思う。

自分が死ねば示しがつくだろうなんて、根拠薄弱なことを謳って、結局は自分が楽になることしか考えていない。

抑圧された社会の中で、意志主張の弱いものはいささかその考えに帰着するきらいがある。やっぱり理不尽なことでも、納得が欲しいから、悪いのは自分なんだと思い込んで解決したふりをしてしまう。

 

そう、それはもはや自己を焦がし続けるだけの、いわばがんじがらめなまま復讐に身を投げた後……桜BADルートの初雪まんまだ。自分が頑張ることで誰かも救われるという、この作品で言われている根幹的な徳が彼女には見えていない。というより孤独で自己評価が低いせいでそれが見られない。見ようとしない。

 

彼女の問題はまさしくここにある。

 

 

 

 

 

 

 

 

…とりあえず、なんかメモみたいになってしまったけど、この辺で。

こんな感じで、アップダウン論法のような全体を俯瞰した考察というよりは、ボトムアップ的にセリフやワンシーンを見て全体を組み立てていく、という方針を取っていきたいと思います。

 

綾ルートはとにかく内容が濃いので冗長気味になってしまいますが、次回はこの先のお話から、綾と初雪の深層を探っていきます。

続きます。

 

 

了。

 

同メーカー商品を載せるのは宣伝の基本(開き直り)

 

 

はつゆきさくら 通常版 - PS Vita

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金色ラブリッチェ コンプリートサウンドトラック

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あなたにとっての卒業とは? 『はつゆきさくら』レビュー&考察の前説

 

 

そういえば最近はエロゲやってないなーって思って自分のPCのデスクトップを眺めてたら、最後にちゃんとコンプした作品は9月にプレイしたやつで、もうここ2か月くらいはエロゲレス状態だったことに気づいた。

 

いや、プレイ途中のものはあるんだけど…うーん、プレイする気にならないなぁ…って感じがずっと続いている。

 

 

 やばいよね、これは。

 

 

と思ったので、だいすきな作品を語ることでエロゲ熱を再発させることにしました。

 

 

 

題材は、これまで私が一番深く考察してきた愛すべき作品『はつゆきさくら』。

 

はつゆきさくら 通常版 - PS Vita

 

 

(あ、Vita版あったんだ…)

 

 

 

知っている人は知っている不朽の名作『はつゆきさくら』。

これは私のエロゲデビュー作でもあり、これまでで一番深く、長く考察を繰り広げてきた作品でもあります。

 

Wordにね、もう長々と書き連ねているんです。2年くらいかけて、10万字くらい。

 

その考察をお伝えしていきたいなと思ったのですが、書いたものをそのまま載っけるにはあまりに長文なので、やるとしたらルートごとに区切って記事にしていこうかと考えています。

 

今日はその序論として、まずは『はつゆきさくら』のレビューを簡潔に、そしてこれから考察していく内容の提示をしていきたいと思います。

 

 

 

*レビューと言いましたが、若干のネタバレが入ります。

物語の核心をつく内容は記していませんが、物語の”方針”を語るくらいのことはしちゃっていますので、あしからず。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・『はつゆきさくら』とは

 

2012年2月24日にSAGA PLANETSより発売された、新島夕氏単独ライトの四季シリーズ最終作(四季シリーズというが、別に各シリーズにつながりは一切ない)。

 

発表された当時の、fripSideの歌をバックに流れる2ndOPがなんとも言えない異質さを醸し出しており、一躍話題を呼びました。

 

 

 

冬をテーマに、降り積もる雪のなか葛藤や悩みをかかえて成長していく少年少女たちの成長を描いた人間ドラマ作品で、内容としてはいたってシンプル。

 

進学校では珍しい不良の主人公「河野初雪」は、ある冬の夜、真っ白なドレスを身にまとった謎の少女「玉樹桜」と出会い、なんやかんやあって学園生活をともにすることになってしまう。

それが引き金となって河野初雪の交流の輪はどんどんと広まっていくが、実はその町にはゴーストと呼ばれるものがいて―――

――卒業を控えた冬の季節に、少年少女たちは様々なゴーストと向き合いながら、卒業を目指して苦難を乗り越えていく。

 

といった内容の、青春学園風なストーリー。

(あらすじを書くのは苦手…)

 

個別ルートの選択も非常に簡単で、公式推薦の攻略順はあれど、基本的にはプレイヤーの自由にヒロインを選んで攻略していくことができます。

シナリオ構成も、prologue→個別ルート→ラストエピソードという、オーソドックスな形式。

 

 

 

もちろんながらキャラが可愛いとか、そういった萌的な面白い要素も多数ありますが、さすがにすべてを紹介するにはあまりに長いので、私が思うこの作品のなによりの売りとなる部分を紹介すると、それは丁寧に描かれた少年少女たちの人間ドラマにあると考えています。

 

そして、その表現が著しく上手く、プレイヤーの琴線に触れさせるだけの演出が丁寧に練られている。

これこそが、『はつゆきさくら』の一番の売りだと考えます。

 

一個一個見ていきましょう。

 

 

 

 

 

・エロゲにしかできない丁寧なシナリオ構成

 

エロゲやノベルゲームの個別ルートっていったい何のためにあるのだろう?と考えたことはないだろうか。

私はしょっちゅう考える。

”そのヒロインを恋人にしたイチャイチャ話を見たい”と言う理由でルートがほしいなら、True√とかラストエピソードなんていらないはず。ゆずソフトなんか特にそういう方針をとっているようにね。

 

最後に一番に注目すべき人物が中心に描かれるラストエピソードなるものがあるということは、そこにいきつくまでの個別ルートは”前座”でしかない、ということになるわけです。

そう、あくまでラストを引き立たせるための、シナリオ論で言えば”ダレ場”に当たる部分だ。

このダレ場にあたる個別ルートで描かれていることがラストに活きるから、ラストエピソードはクライマックスとして映え、作品全体をかたちづくることが出来る。

 

その前座である個別ルートをどう活かし、ラストにつなげていくかというのは作品やメーカーによって方針は違うので、一概にこれ!といえる答えはありません。

 

しかし中でも『はつゆきさくら』はひとつひとつのルートに一切の妥協がない、どれも物語を形成する上で重要ななにかがあまねく描かれているシナリオ構成になっている。

 

 

 

 

はつゆきさくらのシナリオが最終的にゴールとするものは『卒業』。

3年生の主人公をはじめ、後輩のヒロインたちにも、それぞれの卒業というものがあり、どの話でもそれを軸に描かれている。

 

当たり前な話ですが、物語の顔は主人公であり、主人公がそのゴールにたどりつくことこそがクライマックスにあたるわけです。

つまり、主人公である河野初雪の卒業までを描いた話というのが、はつゆきさくらの具体的なシナリオになるわけです(ここがネタバレの限界なのでこれ以上は説明しません)。

 

 

では、それを最後に描くために、個別ルートの立ち位置はどのようになっているか。

 

 

『はつゆきさくら』の個別ルートは、主人公を理解するための話という目的で位置づけられています。

 

河野初雪の抱える問題とは?

河野初雪の言う”卒業”とは?

河野初雪に必要なものは?

 

といったような、ラストエピソードで伏線と成り得るこれらの要素を、個別ルートにちりばめたような構成になっているのです。

 

主人公が接するヒロインが違えば、主人公が表に出す態度や考えも変わる。

ヒロインが抱える問題によって、主人公の出方も変わってくる。

接していくヒロインによって、主人公の考え方の変化の方向性が違ってくる。

 

そうして描かれていく個別ルートのシナリオから、いろいろと比較を施して、主人公がどういった存在なのかを理解していくことが、全体を俯瞰しての、個別ルートの目的だと私は考えています。

 

 

こう言うとヒロイン<主人公の作品なの?と思われるかもですが、まあある意味正しいけど、ちゃんと個別ルートではヒロインが主役になって、せいいっぱい喘いだり萌を引き出したりしてくれているのでその辺は大丈夫です。

 

そもそも各個別ルートにおける主人公を知るには、相対的にヒロインへの理解も必要なので、決してヒロインがなおざりにされているということはありません。

 

 

(シロクマが不遇…という声も聴きますが、個人的にシロクマルートはシナリオ上重大なものが描かれている大切なルートだと思ってます)

 

 

 

 

こういった、ヒロインとの逢瀬をかさねて主人公を理解していくという構成は、エロゲにしかできないものだと思うんですよ。

ゲームシステム的なやり直しが効くからね、エロゲは。

同じ時間軸で複数のヒロインと接触できるわけだから、これほど丁寧に人間が描けるコンテンツはないよ。

 

 

『はつゆきさくら』は、その利点を最大限に活かしたシナリオ構成であると、私は太鼓判を押します。

 

 

 

 

 

 

 

・絶妙な演出の強さ

 

演出…といって思いつくのはCGとか、BGMとか、あとは簡易的なムービーだろうか。

それらをどう織り交ぜるか。それが演出というものですよね。

 

でも一概に演出といったって、シナリオに則したものとそうでないものとがあると思う。

 

アホらしいほど極端な話、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』のようなファンタジーものの陽気な喜劇で使われるような音楽が、『マクベス』のような時代シリアス系の悲劇に合うわけがないでしょう。

誰にだってわかることだけど、ようはそれがシナリオと音楽との相性というもの。

当然、シナリオとCGとの間にもそのような相性の善し悪しはあると思います。

 

 

 

シナリオ論では一番に目を見張るべきところに当たることだと思っていますが、やはりテンポというのは大事な話。

リズム的なテンポもそうだが、精神的なテンポもそれにあたる。

精神的なテンポというのは要するに”刺激”ですね。極端な話、背景や立ち絵の変化がないシーンが延々と続くのは飽きるでしょう。

視覚的な刺激を適度に与えられることで、人は飽きることなく物語に目を向けられるわけですが、これがまたとんでもなく難しい話。

 

慢性を恐れ、ムービーやCGの変化を数秒ごとに一回はさむと、それは逆にテンポが悪くてダメになる。

だからって何の変化もない場面を見せられても刺激がなくてダメになる。

 

 

その案配が難しい中で『はつゆきさくら』はどれだけできているのかというと、少なくとも私は心地よいテンポだと感じました

 

 

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ちょっとわかりづらいけど、この作品、たまにこうやって背景に雪が降っているんです。

静止じゃなく、ゆらゆらと動いたまま、ですよ。

 

なにげない演出だけど、私はこれだけでも十分な演出効果だと思う。

 

『はつゆきさくら』は冬を舞台にしているだけあって、”雪”というものに対して物語上の意味を持たせている。

別にそれを深くまで理解する必要はないけれど、たとえばシリアスなシーンでこの雪が画面をゆらゆらと揺らぎ落ちているだけで、見る印象は大きく変わると思う。

 

こんなちっぽけな変化で?と思うかもしれないが、ちっぽけだからこそいいんです。

 

確かにこの雪の演出はちっぽけなもので、ムービーやCGほどの強い刺激は与えられないけれど、逆に言えばそれは文章を邪魔しない演出なわけです。

 

インパクトとして大きな刺激がほしいならムービーやCGを使えばいいけれど、文章をメインとしたいときに、この手のちっぽけな演出はとにかく映える。

 

もちろんいざというときにはCGを使ってインパクトを出してきますよ。CG、結構多いですし。

 

このように、この作品はリーディングを邪魔しない、なおかつ視覚的にも刺激のある演出効果を丁寧に仕込んでいるのです。

 

 

 

音楽の話もします?

これはもう個々人の感性によるけど、この作品のBGMはハイレベルだと個人的に思います。

むしろ文章を読むのを邪魔してくるくらい音楽の盛り上がりが激しかったりもする。そこがネックになるかもだけど、私は音楽もエロゲの一部と考えているのでむしろウェルカムって感じ。

 

人間は視覚よりも聴覚的刺激の方が脳に残りやすいので、音楽が盛り上がってくれればくれるだけ、その時のシーンを想起しやすくなり、結果としてシーンごと印象に残る。

 

 

 

 

そういう絶妙な刺激の強さも、この作品のいいところでもありますね。

 

 

 

 

 

・キャラクターの濃さ

 

これについてはネタバレなしで語るのがきついのですが、前述したこととよく似た話。

 

さきに、この作品の個別ルートは主人公を理解するために置かれているものであり、それを引きたてるためにヒロインを理解する、みたいな話をしましたが、つまりはそういうこと。

あまり前のめりになる必要もないけど、理解しようと心掛けなければ簡単に理解できないようなキャラクターが多いです。

逆にいえばそれはキャラクター性が非常に濃いということ。

人間味があるということにもつながるでしょうね。

 

でも簡単に理解できなくて当たり前。

構造上、自分と同じ考え方の人ばかりじゃないんだもの。

だからこそ、自分と違う人間の考えだからこそ理解する価値がある。

 

 

 

たとえばこの子。

 

 

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はつゆきさくらに限らず全作品で私がトップクラスに好きなキャラなのですが、彼女のルートをもう何周したかわかりません。

 

大学の試験勉強のときも、BGMとして彼女のルートを垂れ流してたくらいですし(テストは全然問題なかったです)。

 

でもそれくらいして、やっとこの子が言っている些細なセリフの意味に気づけるようになりました(まあ、単に私の理解力不足な点もありますが)。

そうして改めて思うのは、この子はとても人間的に弱くて、でも強い子なんだな、ということ。

個別の考察の方でいずれ書いていきますが、そんな筆舌に尽くしがたい人間的な弱さと強さを孕んでいるキャラなのです。

 

そして彼女のその人間性も、主人公の理解に大きく関わっている、というのも大きなポイント。

 

ひとりひとりのキャラクターに人間味の溢れた濃さがあり、それらが主人公の人間性の理解にも直結していく。

 

だからこの作品の中で無駄なシーンってのはほとんどなくて、よくお弁当イベントとかただのイチャイチャデートとか萌要素一点のシーンが散見される作品がある中で、この作品のイチャイチャイベントにはシナリオ上重要な隠された伏線みたいなものがあったりする。

それに気づいたとき「メタいなぁ」とか「これ、こういう意味だったのかw」とか、また違った楽しみを得ることもできるのです。

 

 

やっぱりひとりひとりのキャラクターの人間的な濃さというのは大事なもので、より濃密なシナリオを展開するためにも必要なものなのだな、と感じます。

 

 

 

『はつゆきさくら』は、そう言った部分も大事にされているんですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

他、魅力という魅力は枚挙にいとまがないくらいですが、今日はここまで。

以後、物語考察としてはつゆきさくらを語っていくつもりでいますが、基本的に語ることは、前述したこの物語のストーリーにのっとり、ヒロインおよび河野初雪を理解していく考察を繰り広げていきたいと思います。

 

繰り広げていきたい…というかすでに繰り広げているんですけどね。個人で。

 

 

 

とにかく『はつゆきさくら』は万人受けする不朽の名作ですので、多くの人にやってもらえたらなぁと切に思っております。

 

 

 

 

了。宣伝は怠らない質。

 

 

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